9.遺訓第7条 明治維新は『朝廷』を抱き込む謀略合戦 2018915

 

■遺訓第7

事大小と無く、正道を踏み至誠を推し、一時の詐謀を用う可からず。人多くは事の指支ふる時に臨み、作略を用て一旦其の指支を通せば、跡は時宜次第工夫の出来る様に思へども、作略の煩いきっと生じ、事必ず敗るるものぞ。正道を以て之れを行へば、目前には迂遠なる様なれども、先きに行けば成功は早きもの也。     

 

□第7条の解釈

「正道を踏み至誠を推し」の反対がわに、詐欺狡猾に趣き、上下互に欺き(遺訓第13条)という語句がある。詐略や詐謀にかんする西郷の訓戒は、つぎの条にもある。

・遺訓第34条

作略は平日致さぬものぞ。作略を以てやりたる事は、其の跡を見れば善からざること判然にして、必ず悔い有る也。唯戦に臨みて作略無くばあるべからず。

併し平日作略を用れば、戦に臨みて作略は出来ぬものぞ。孔明は平日作略を致さぬゆゑ、あの通り奇計を行はれたるぞ。

予嘗て東京を引きし時、弟へ向ひ、是迄少しも作略をやりたる事有らぬゆゑ、跡は聊か濁るまじ、夫れだけは見れと申せしとぞ。 

・遺訓第35条

人を籠絡して陰に事を謀る者は、好し其の事を成し得るとも、慧眼より之れを見れば、醜状著るしきぞ。人に推すに公平至誠を以てせよ。公平ならざれば英雄の心は決してとられぬもの也。 

 
  これらの遺訓をどのように解釈すべきか。

詐略や詐謀など小賢しいたくらみなどするな。はかりごとは、かならず後でばれる。みっともないことだ。「急がばまわれ」、「無理がとうれば道理がひっこむ」、「頭かくして尻かくさず」などということわざもあるではないか。正々堂々と正面から向かえ。

このように解釈するのであれば、お互い様のせまい範囲で「自治的」な社会生活をおくる庶民むけの教訓ではあっても、あえて遺訓とするほどのものではなかろう。

 

南洲翁遺訓は、国家の為政者(政治家・公務員)に対する教訓である。

万民の上に位して国家権力を行使する公務員は、一般国民、大衆、庶民とは別格の人物、人種なのだから、西郷の遺訓は「敬天愛人」の政治思想の実践として、つぎのように解釈すべきだろう。

公務員の職務にある者は、正道を踏み至誠を推し、目前の一時しのぎではなく、慧眼をもって迂遠なる先きを読み、跡から見て後悔するような醜状は見せず、英雄の心をもて。

 a.天道は、「天網恢恢疎にしてもらさず」、人為をこえて正道も邪道も織り込む。

b.政治は、正道を踏む者が成功し、邪道を踏む者が失敗する。 ➡ 破邪顕正

c.だから、成功したければ正道を踏み、「人事をつくして天命をまて」、玉砕するもよし。

 

●政治の成功/失敗の究極の判断基準は、「人民の生活が安全で豊かになるかどうか」である。

 政治の目的は「愛人」であり、その手段は「敬天」、自然の道義にかなうことである。

自然;天道・道義 ← <敬天>政事:文武農<愛人> →人民;生活

世界{道義(大政)}← 国家{破邪 文・武(国政)}  →社会{顕正 生(文化・経済)}

   グローバル  ←   ナショナル  →    ローカル

       徳治  ―    法治     ―    自治

       権威  ―    権力     ―    自力

 道義;国境をこえ国家を横断して、人類社会の秩序を維持する破邪顕正の判断指針

     正道: 世界、人類社会にとって益をもたらす道 ~個人、集団、国家、自然

     邪道: 世界、人類社会にとって害をもたらす道 ~個人、集団、国家、自然

 **破邪は法治国家の役割、顕正は人民生活の自治にませろ! ⇒ ここがポイント。

 

◆論点7.1 「西郷は英雄ではなく権謀家である」と評価する人の見解

西郷を英雄視する人はおおい。しかし「その英雄像は虚像である」と苦々しく思う人も少なくない。西郷は「天下の大鐘、叩く者の大小に従い、其の声も亦大小あり」の人物であるのだから当然だろう。

西郷が、遺訓第34条で「予嘗て東京を引きし時、弟へ向ひ、是迄少しも作略をやりたる事有らぬゆゑ、跡は聊か濁るまじ、夫れだけは見れと申せしとぞ」というならば、ただちに反論する人がいるだろう。

 

 西郷を好きになれない人が、西郷の「謀略」としてあげるひとつに相楽総三を総裁とする薩摩藩邸焼き討ち事件がある。

西郷が、薩摩藩士の伊牟田尚平と益満久之助に指示して、幕府を挑発するために、勤皇をとなえる脱藩志士と浪人だけでなく浮浪者やヤクザまでもあつめ、江戸市中の放火や、掠奪・暴行などを繰り返した江戸騒擾事件だ。

薩摩藩邸が佐幕派の庄内藩などによって焼き討ちされ、西郷の「詐謀」は実をむすび、京においても「薩摩討つべし」の声が沸騰し、鳥羽伏見の戦いの直接の引き金となった。

さらにその後の戊辰戦争において「赤報隊をみすてた件」も、西郷の冷酷非情な人物の証として糾弾する人もいる。

それは、史実にもとづく判断であるか/単なる好き嫌いにもとづく感情的で無知ゆえの判断であるか。

その史実は、長谷川伸の労作である『相楽総三とその同志』 に詳しい。それを読んだ後の見解は、人それぞれであろう。

 

古事記と日本書紀など日本古代史の研究で有名な津田左右吉に『西郷隆盛論』(中央公論195711月号)という小論がある。そこで津田は、西郷を陰謀家だとする。

以下にその趣意を引用する。(この小論は、断定調ではなく文末は、~ようである、あろう、見られよう、なかろうか、あるまいか推せられる、などがおおいけれども、引用では省く。

 

・西南戦争の失敗について

日本の情勢と彼みずからの能力とに対する明察が彼に無かったからだ。

・安政5年、幕府と抗争する尊王攘夷派の志士との関係について

 当時のサイゴウは、思慮の周到な実行家ではなく、・・(略)・・風説の真偽を慎重に判断することなくして軽信する人物であった。

・斉彬との関係について

 西洋に対する日本の国策についてしっかりした意見を彼がもっていた形跡は見えないようであるが、これは彼が当代に希な賢君といわれていた故の藩主セイヒン(斉彬)の明識を解することができなかったことを示す。

  彼の外交に関する言議が後までも浅薄軽浮なもので、当時の世界の形勢などは殆ど知らなかった。

・長州の浪人輩志士輩との心理的な共通点について

 自己に与するものの主張と行動とを正論正義とし、それに反するものを奸人の奸謀奸策とする。サイゴウが幕府の奸策とか幕奸という語を頻りに用いているのは、ただそれらを自己の主張に反し自己の行動を妨げるものと見たためである。

・禁門の変から薩長同盟までについて

 禁闕守衛のためという主張と行動は、サイゴウの権謀から出たものである。密偵をチョウシュウに遣わし、その支藩には利をくらわせて本藩から離れさせる画策をせよ、という指令は彼の権謀家であることを証する。二年後に長州と協約を結び同一行動をとるに至った。権謀家はどこまでも権謀家である。

・幕府の外交上の処置について

 サイゴウの言動が、曲解や猜疑の上に成り立っているのみならず、一貫した考えをもたず、場当たり的の思いつきで言動し、外国人の力を借りて日本の国政を動かそうとさえしていて、それらが橘詐と権謀とによって充たされている。

・武力倒幕と政権奉還の容認について

 将軍ケイキの政権奉還を容認したのにも、彼の権謀が現れている。彼の行動には互いに矛盾していることが多く、時によって変化するが、倒幕のためには、虚言を吐いても術策を弄しても少しも意に介せず、悪辣なる権謀を用いた。

・諸藩の意見について

 ヒョウゴの開港は、諸藩の意見を徴した上で宮廷で決定したものであるから、サイゴウがいうのは諸藩の意見を尊重しないものであって、それでは、諸藩の会議というようなことを何につけてもいっている彼の平素の主張に背くではないか。

 

「西郷の虚像をあばく、これこそが実像である」というたぐいの書物は少なからずある。

西郷隆盛は、征韓論者の筆頭、西南戦争は軍部独裁をめざすクーデターのはしり、軍国主義の神様、右翼の頭領、侵略戦争の元祖にして対外膨張主義者、士族を温存する封建主義者にして時代遅れの農本主義者、近代的教養に無縁な者などなど「これこそが実像だ!」とするたぐいである。とくに戦後のサヨク系学者の言説には。

明治維新前後のイギリスの外交官アーネスト・サトウは「回顧録」を残してくれた。

王政復古の約4か月前の日付に、「西郷が、『国民会議』を設立すべきであると言って、大いに論じた」とあり、「西郷が国民会議の信奉者だったという事実は、われわれの西郷像に大きな修正を迫るものである」と坂野潤治は、『西郷隆盛と明治維新』の冒頭に書いている。

このことは、津田左右吉の「サイゴウが諸藩の会議というようなことを何につけてもいっている彼の平素の主張」という記述に合致する。

 

西郷が「諸藩の会議を重視する」ことの意義は、西郷思想の公議論(上院の有力大名合議と下院の開明藩士衆議)を理解するうえで極めて大きな論点である。ここでは、このことだけを記憶しておこう。

たしかに西郷は「天下の大鐘、叩く者の大小に従い、其の声も亦大小あり」の人物であるので、逆に叩く者の見識・品性・思想・立ち位置をあばきだす。

わたしも西郷を叩いている。聞こえる音は、我が身の卑小さと凡俗性の響き返しでしかないけれど。

 

◆論点7.2 マキアベッリの君主論 ~西郷思想との同質性と異質性

 政治における権謀術策といえば、マキアベリズムである。その思想は、「目的のためには手段をえらばず」などと一般に理解されている。

政治では、道義心など尊重されないものだと考えて、マキアベリズムを現実的で冷静な真実の政治思想あると評価する政治学者や哲学者も少なくない。

マキアベッリからみれば、西郷の「敬天愛人」思想は、あまりにも非現実的な理想・幻想であって、そういう道義心をかかげる君主は、すぐにその地位を追われてしまう、というものであるようだ。

マキアベッリ(1469-1527)は、ルネサンス期イタリアの政治的混乱の世に生きた人である。君主たるものは、権力をいかに奪取・維持・拡大すべきか、君主政体をいくつかに類型化してその特質について著作を残した。

その時代背景に無知なわたしは、よく理解できないけれども『君主論』(訳:河島英昭)からその一部を以下に引用する。

 

・君主は良き土台を必要とし、土台の基本は良き法律と良き軍備である。(第12章)

・君主たる者は、戦争と軍制と軍事訓練のほかには何の目的も何の考えも抱いてはならない。非武装であることは、侮られる。(第14章)

・君主がみずからの地位を保持したければ、善からぬ者にもなり得るわざを身につけ、必要に応じてそれを使ったり使わなかったりすることだ。(第15章)

・君主たる者は、おのれの臣民の結束と忠誠心とを保させるためならば、冷酷という悪評など意に介してはならない。慕われるよりも恐れられているほうがはるかに安全である。(第17章)

・偉業を成し遂げた君主は、信義などほとんど考えにいれないで、人間たちの頭脳を狡猾に欺くすべを知る者たちである。(第18章)

・君主たる者は、いかにも慈悲ぶかく、いかにも信義を守り、いかにも人間的で、いかにも誠実で、いかにも宗教心に満ちているかのように、振舞わねばならない。そうであることは、有益であるが、そうでないことが必要になったときには、逆になる方法を心得ていて、なおかつそれが実行できるような心構えを、あらかじめ整えておかねばならない。(第18章)

・君主の典型としてチェーザレ・ボルジアが行ったつぎの統治をたかく評価する。(第7章)

1)武力や謀略によって

2)敵を退け、味方をふやし

3)兵士たちに慕われ、かつ畏怖され

4)反抗する危惧ある者を抹殺し

5)民衆から愛され、かつ恐れられ

6)峻厳であると同時に、慈悲深くふるまい

7)古い政治を、新しい制度によって改め

8)寛大であり、かつ惜しみなく与え

9)忠実でない軍隊は、解体して新たに組織しなおし

10)他の王侯や君主たちとは、友好関係を保ちつつ

11)自分に利益をもたらすように仕向け

12)彼らを攻撃するさいには、慎重を期すこと ➡1)にもどる。

 

マキアベッリと西郷の同質性は、「君主にとって必要な良き土台は、良き法律と良き軍備である」ということだろう。西郷は、あきらかに軍(いくさ)好きであり武闘派政治家である。

両者の決定的な異質性は、「信義」の使い道である。

マキアベッリは、人間の心理に潜在する「信義」を自分の権力保持のために利用する。西郷が否定する詐略、謀略を積極的に肯定する。マキアベッリは、政治の覇道として邪道を容認する。

マキアベッリは、人間の潜在的な心理をふかく洞察し、それを巧みに操作することによって大衆や臣民や敵をあざむく君主像をえがく。

西郷は、人間の心理を超越する天の道=天意を洞察して王道をあゆむ君主像をえがく。なによりも「破邪のために武力を行使する大義」を重視する。軍人政治家であるからこそ、武力を行使する正当性、大義名分の正道にこだわる。

 

ここで問題とすべきは、マキアベッリが強調する君主の政治における「謀略肯定論」の現代的意義である。現代の政治において、「謀略」は存在しないのか。  

政治における「謀略肯定論」は、明治維新運動において、明治政府の近代国家建設において、戦前の天皇制政治おいて、さらに戦後憲法の民主主義政体において、憲法9条と自衛隊の関係において、いかなる意義をもつか。

 

◆論点7.3 政治における「謀略肯定論」の現代的意義

2018年の現在、安倍首相は「国民の批判を真摯にうけとめ、国民の心に寄りそって、謙虚に丁寧に、政権を運営します」という発言をくりかえしている。

その政権の高官たちが国民に発する「常套文句をちりばめた分かりやすい」言葉の羅列には、国民をあざむく「詐略」も多いのではないか。

まさにマキアベッリがいう「君主たる者は、いかにも慈悲ぶかく、いかにも信義を守り、いかにも人間的で、いかにも誠実で、いかにも宗教心に満ちているかのように、振舞わねばならないそのものではないか。

権力者は、「国民の安全と生活をまもる」ことを「権威」として、国民に美辞麗句をまきちらす。政治家は、選挙の票をあつめるための人気取り、大衆迎合、ポピュリズムに向かう。

わたしもふくめて多くの人間は、事実のわずかな知識とぼうだいな物語・風説・流言にもとづいて、「言葉」によって現実と歴史を自分なりに解釈するものだ。

 

ネット社会では、フェイクニュースにもとづく発言が満ちあふれている。

自分に都合のよい物語を信じ、事実の因果への自分の無知をかくすことなく、心情だけを根拠にして、反主知主義・反知性主義が、世界的にひろがる世相である。

どうしてファシズムに国民がさらわれていくのか、自分たちが理性的な哲学を一生懸命研究し、教えようと思っても、国民はもう理性的な哲学に興味を感じなくなっている」(羽仁五郎)などという、上から目線の学者の発信など、大衆社会の人民には届かない。

 

アメリカのトランプ大統領を熱狂的に支持する層のなかに、「QAnon」という陰謀論集団が形成されているそうだ。荒唐無稽で事実無根の発信であっても、共和党支持者の多くが、「メディア陰謀論」を気持ちよく信じているという。

津田がいった「自己に与するものの主張と行動とを正論正義とし、それに反するものを奸人の奸謀奸策とする」のまさに現代版ではないか。

 トランプ大統領は、あからさまに「アメリカ第一主義、アメリカ国益至上主義」を標榜して、アメリカの私利私欲を最大限まで実現しようとしている。アメリカの政治・経済に影響力をもつユダヤ系勢力を支持基盤として、イスラエルを支持して中東政治にコミットする。

その中東政治問題は、映画の「アラビアのローレンス」がえがくように西欧列強の「謀略」によって種がまかれたのではないのか。

オスマン帝国トルコにアラブ反乱を画策した「イギリスの三枚舌外交」と呼ばれる植民地分割、不自然な国境分断の「謀略」である。

それは、フセイン・マクマホン協定、サイクス・ピコ協定、バルフォア宣言である。まさに西欧列強・帝国主義国家の私利私欲を追求する「謀略」以外のなにものでもない。

フランス革命で「自由・平等・友愛」をかかげ、キリスト教の愛を唱え、人権尊重をかかげるイギリスやフランスは、世界にむかって「いかにも慈悲ぶかく、いかにも信義を守り、いかにも人間的で、いかにも誠実で、いかにも宗教心に満ちているかのように」振舞っているのだ。

 

詐謀・謀略とは、本音と建前を分けて、自分の私欲・本心をかくし、建前をみせて相手の心理につけこみ、ウソをつき、たぶらかし、さそいこみ、まるめこみ、でっちあげ、だますなどの行動によって、自分の本心を実現しようとする作戦思考、戦術である。

相手がダマされなければ、詐謀は成立しない。ダマしたほうが悪いか/ダマされたほうが悪いかという議論は、たえずある。

戦後の日本人のおおくが、日中戦争・太平洋戦争(大東亜戦争)に協力したのは、国民が国家にダマされたのだ、軍人上層部にダマされたのだと思っているようだ。天皇までも軍人にダマされたのだから、天皇に戦争責任はないという人さえいる。

八紘一宇・大東亜共栄圏思想は、大日本帝国が国民を洗脳するおおいなる「思想謀略」であったのではないか、という問題である。

 

人間や集団や国家どうしの関係は、誠実な善人どうしの「正道」だけではなく、ずる賢い私欲をもつ合理的なキツネとタヌキのだましあいの「邪道」でもある。

西郷思想の根底には、キツネとタヌキがうごめく社会のなかで、政治を行う者・公務員に私心をはさまず、「正道を踏み至誠を推す」ことを求め、私欲なき無欲人間を英雄とする理想像がある。

この理想像は、領土に閉じた主権国家の国益までも「国家のエゴイズム」、「私利私欲のナショナリズム」とみなす政治思想にいたる。

西欧列強のあまりにも利己的な帝国主義を「私欲・貪欲の権化」と糾弾する。イギリスの清(中国)侵略のアヘン戦争を見よ。

西郷が「国家権力者の私欲」を徹底的に批判する根底には、賢しらに功利を追求する人為的合理性のうえに自然の道理をすえる老荘の天道思想がある。

人間の知恵をあつめた人道のうえに天道がおおう。

人道も公道も天道の一部にすぎない。

西郷のこの天道思想こそが、天皇制近代国家・大日本帝国の我利我利の虚妄さを露呈した独善的な八紘一宇・大東亜共栄圏思想の根本的な否定原理であるべきなのだ。

 

天下・自然・地球の下で生きる個人―集団―国家のそれぞれを「主体」とみなす人類社会の歴史は、正道と邪道が入り混じる複雑性そのものである。

天道の「天網恢恢疎にして漏らさず」の下では、人間の作為/無作為の善悪判断は、相対的である。

人類社会の歴史は、豊穣ではあるが有限な人間の頭と言葉でもって、不条理と合理、正道と邪道、戦略と詐略、計画と偽計、深慮と遠謀などを判別する基準に、絶対性などは無いことを教える。「文」の限界である。法治の限界である。

古今東西の政治には、建前と本音をじょうずに分ける言行不一致、権謀術数・奸計・詐略がうずまいているのだ。

 

◆論点7.4 天皇を抱き込む「大いなる謀略」 ~天皇の『権威』の争奪戦

『君主論』のいう「君主」とは、一定の領地(国土)と領民(国民)を政治的に支配する最高権力者である、という意味で現代の主権国家における大統領、首相、元首、主席、国王などと称される者とおなじとみなしてよいだろう。

最高権力者は、かならず「良き軍備」つまり、敵対国むけの武装軍隊と国内むけの治安警察という暴力機構を保有する。

では日本の『天皇』は、「良き軍備」をもつ最高権力者の「君主」であるか。

天皇の地位は、日本列島社会の歴史において、どのように誕生し、どのような機能をもち、どのように変化し、どのように温存され、そして戦後憲法の「国民統合の象徴」の地位にいたるのか。

ここでは、明治維新前後の日本史における天皇の地位の変化に焦点をしぼる。

 

明治維新は、鎌倉時代にはじまり700年もつづいた封建制・武家政権を破壊し、立憲制・天皇政権の近代国家体制をめざすという、日本史に画期的な峠・分水嶺とみなされる。

明治維新という革命は、旧体制の破壊・倒幕新体制の建設・王政復古の明治政府新体制の維持・大日本帝国憲法発布によってひとまず完成する。

このプロセスで、天皇の地位と政治的権能は、どのように変化したか。

 

ここで問題とすべきは、「天皇―征夷大将軍」、「朝廷―幕府」、「天皇制―封建制」、「王道―覇道」、「権威―権力」、「文―武」、「徳治―法治」、「大政―国政」など多様な視点をニ項対立とする国家統治の政治思想であり、その思想にもとづく行動である。

幕末の現実の事態が要求する行動は、まずはペリー来航につづいて、ハリスが幕府に要求する日米和親条約締結への対応である。

その行動主体は、a.朝廷(天皇と公家)、b.幕府(徳川家と譜代大名)、c.雄藩諸侯(親藩・外様大名)、d.士族(藩士、家老~与力)、e.勤王志士(脱藩浪士~平民;医者、儒者、庄屋、豪農、富商)などである。

一般の平民、人民大衆はカヤの外である。明治維新は、民主共和制をめざす革命ではないのだから。

 

明治維新にいたる者たちの行動は、「攘夷―開国」、「尊皇―佐幕」、「武力倒幕―公武合体」、「王政復古―合議政体」、「因循保守―開明改革」などを両極とする思想が対立し、中間派、日和見党をまきこみ、ねじれながら進んだ。

そして条約締結の「勅許」問題と「将軍跡継ぎ」問題とがかさなりながら、天皇の地位の「権威」が突如として浮上したのだ。詳細は歴史書にゆずる。

天皇の勅許、勅書、詔勅、宣旨、『錦の御旗』の争奪戦、公家の袖の下買収による朝廷の政治的利用、つまり詐術、詐略がそれぞれの行動主体において横行した。

津田が指摘するように「倒幕のためには、虚言を吐いても術策を弄しても少しも意に介せず、悪辣なる権謀を用いた」者たちが、たしかにどの陣営にもいたのである。

『君主論』を参照するならば、幕末の権力闘争は「天皇を抱き込む『大いなる謀略』合戦」であるとわたしは解釈する。

幼冲の天子を擁して利用した薩長雄藩の陰謀」という俗説にわたしは加担する。

 

大久保は、天皇が第二次長州征伐の勅許を幕府・慶喜にあたえたことについて、「天下万人御尤もと存じ奉り候てこそ、勅命と申すべき候へば、秘義の勅命は勅命に非ず候」とまで文書に記している。天皇の「権威」を心底からは信じていないのだ。

天皇は、国家権力を奪取した者が、その権威として神棚にかざりおく単なる烏帽子に過ぎなかったのではないか。

明治維新の王政復古」は建前にすぎず、本音は西欧文物を模範とする「文明開化」であったのではないか。

 

●天皇を奉戴して「新体制の建設・王政復古」をかかげて尊王をとなえる維新運動家たちの本音は、西欧列強に対峙する近代国家建設において、どのような天皇制政治システムを構想し、設計していたのか。

 この問題提起は、遺訓第8条の「我が国の本体」問題に接続する。

 

以上 8.遺訓第6条へ    10.遺訓第8条へ