13.遺訓第11条 野蛮と文明 ~道義国家の大政システム 2018年12月15

 

■遺訓第11条  

文明とは道の普く行はるるを賛称せる言にして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言ふには非ず。世人の唱ふる所、何が文明やら、何が野蛮やらちっとも分らぬぞ。

予かって或人と議論せしこと有り、「西洋は野蛮じや」と云ひしかば、「否な文明ぞ」と争ふ。「否な否な野蛮ぢや」と畳みかけしに、「何とてそれ程に申すにや」と推せしゆゑ、「実に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇懇説諭して開明に導く可きに、左は無くして未開蒙昧の国に対する程むごく残忍の事を致し己れを利するは野蛮ぢや」と申せしかば、其の人口をつぼめて言無かりきとて笑はれける。

 

□遺訓第11条の解釈 野蛮―残忍な貪欲 : 文明―慈愛の道義

 明治維新の前夜、幕末、鎖国の世の日本人に驚愕と恐怖をあたえた海外ニュースが、1842年のアヘン戦争の結末、中国()がイギリスに敗北、不平等条約の締結、香港の割譲である。

当時のイギリスは、インドを植民地にして奴隷労働のアヘン栽培、そのアヘンを中国で不法販売、その対価として銀と茶、絹、陶磁器などを収奪、莫大な利益・国益を得ていたのである。アメリカは、アフリカの黒人を綿花農場の奴隷としていた。

西郷は、その現実を「残忍な野蛮」という。

 

1863年(文久3)、薩英戦争―薩摩藩とイギリスが錦江湾で戦闘。双方が大きな被害をうけて、その後両者は相互に接近して明治維新にむかう。

 当時の西郷は、沖永良部で俘囚の身、断片的な情報を手紙でもらって切歯扼腕。

 その後西郷が主導した明治維新は、西洋の文物をおいかける「文明開化」をめざした。

 西郷は、漢訳の『大英国志』を読みイギリスの歴史を知る。『那波列翁伝』を愛読し、普仏戦争やフランス革命にかんする知識もある。(遺訓第16

 

西郷は確信するーキリスト教精神をベースとする西洋列強の資本主義国家は、「」からはずれて武力をふりかざし、アフリカやアジアの「未開蒙昧の国」を植民地とする「残忍な野蛮」国なのだ。

 西郷は確信するー広く各国の制度を採り開明に進まんとならば、先づ我が国の本体を据ゑ風教を張り、然して後しずかに彼の長所を斟酌するものぞ。(遺訓第8

忠孝仁愛教化のは政事の大本にして、万世に亘り宇宙にわたり易ふ可からざるの要道也。は天地自然の物なれば、西洋と雖も決して別無し。遺訓第9

 日本の近代国家の文明開化は、道―慈愛―「敬天愛人」の風教を張る道義国家を目指さねばならない。

西洋をまねして物質的繁栄だけを追い求めてはならぬ。文明開化の事業は、天地自然を畏敬する「敬天愛人」を基盤としなければならない。

天地自然のもの、忠孝仁愛教化の道、慈愛の精神文化を政事の根幹に据えなければならぬー廟堂に立ちて大政を為すは天道を行うもの遺訓第1条

□大政―敬天愛人==> 国政―敬天愛民 <==生活敬天愛隣

 

◆論点11.1 野蛮と文明の比較一般論

1)人類社会の歴史観 ~近代思想と伝統思想

A: 進歩史観~人類は野蛮から文明へむかって生活環境を進歩しつづける。

  ・壮年期世代を典型とする人間像―父親の競争社会、仕事中心思想

B: 循環史観~人類は子どもー両親―祖父母の人間関係を順繰りに生きる。

   ・少壮老の人生毛作を生きる人間像―母親の養育社会、生活中心思想

 

2)野蛮社会と文明社会の対比 ~近代人の常識

A: 野蛮社会~動物的、未開、辺地、田舎生活、野暮、劣等、無知蒙昧

・狩猟採集漁労を生業とする社会、自然の産物を利用するだけの社会

B: 文明社会~人間的、進歩、中央、都市生活、洗練、優越、知性明晰

・農業、土木、灌漑、牧畜、材料加工、道具製作など人工生産を職業とする社会

 

3)文明社会の自己讃美 ~白人中心、理性中心、強者―弱者

 進歩史観は、文明国家が蛮族国家を征夷し、差別して支配することを正当化する思想である。西洋の一神教、中国の華夷・中華思想、インドのヒンドウ―教・カースト制度に通じる思想である。

劣った野蛮に優れた文明を対置する発展段階説は、古代から1900年代中ごろまで、世界の知識人たちの常識であり、民族―人種―国家がせめぎあう国際関係、グローバル社会に対応する基本的な政治思想であった。

 文明人は野蛮人より優れた道徳的規範を持ち、優れた道徳的実践者であるという自画像をえがいた。キリスト教の信者は文明人、異教徒は野蛮人とみなした。  

 

文明―人道的、寛容、礼節、洗練、合理的、科学、進歩 西欧諸国

野蛮―動物的、残酷、乱暴、粗野、呪術的、迷信、停滞 アジア、アフリカ(暗黒大陸

西洋思想を崇拝する文明人は、アフリカの黒人・アジアの農奴・アメリカの原住民を、知性が未発達で合理的思考ができず、非論理的な呪術的思考の愚鈍とみなす。

啓蒙主義は、文明人が野蛮人を教化することを善とする。キリスト教と合体した帝国主義は、近代的契約行為を知らぬ未開の異国を侵略して収奪することを正当化する。

 

4)精神文化と物質文明の対比 ~近代思想の相対化

「高貴な野蛮人」・「善良な未開人」・「気高い原住民」という言葉がある。

自然賛歌、桃源郷、ユートピア、ロマン主義、縄文文化の評価、文化人類学などまで、未開の逞しさ、自由と自制、相互扶助、道義心の優越を主張する考え方がある。

□「人食い人種」は実在したか?

 ~生活習慣としての食人文化は存在しない、西欧人のデッチアゲ

□『野生の思考』 構造主義人類学 レヴィ=ストロース 

~人間精神の普遍性の把握にもとづく異文化理解、基層文化理論

□「気高い原住民」 モンテーニュ

~戦いに明け暮れるヨーロッパ社会に比べて、アメリカ原住民は「平和で誇り高く、礼節をわきまえた高貴な人種」である。

「高貴な野蛮人」とは、「未開社会の野蛮人が、文明化された西欧人が失ってしまった様々な美徳を持っている」という主張。

発展段階説にもとづく社会進化論的な偏見に異議をとなえる文化相対主義。

地球上のいかなる社会もそれぞれの風土にあった固有の価値にもとづく精神、洗練された文化体系を持っているのだ。西欧人の尺度で文化の優劣を論じることはゴーマンじゃないか、という近代文明批判思想。

・精神文化

 野生的思考―生々流転する天地自然と一体となって生きる「成る」思考、天道思想

・物質文明

科学的思考―かぎられた目的に即して効率を上げるための「作る」思考、技術思想

 

◆論点11.2 西洋列強による地球分割、植民地化の歴史

西洋文明の生活を象徴する富裕層の「宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華」は、何によってもたらされたのか。

「未開蒙昧の国に対する程むごく残忍の事を致し己れを利する」収奪・強奪・搾取によってではないのか。

世界史年表から抜粋する。

1)大航海時代 15世紀~16世紀

 大西洋横断~コロンブス 南米大陸~アメリゴ・ビェスビッチ インド大陸~ブアスコ・ダ・ガマ 世界周航~マゼラン アジアの占領~ゴア、マラッカ、セイロン、マニラなど

2)ヨーロッパ列強による南米・アフリカ・インド・アジアの植民地化 16世紀~19世紀

 スペイン・ポルトガル ➡ オランダ ➡フランス・イギリス

3)産業革命と帝国主義時代 18世紀~20世紀前半

 産業革命➡国家資本主義➡資本輸出➡後進地域の経済支配➡世界分割➡戦争

大海洋時代 産業革命 資源収奪 市場拡大 版図拡大 覇権国家

4)近代文明と帝国主義国家 

帝国主義とは、国家が軍事力をもって他国を侵略し、植民地として自国の政治・経済・文化の流儀によって、征服した地域の原住民を支配すること、そのことを正当化する国家社会思想である。

帝国主義の目的は、植民地の物産収奪、資本の投下、原材料の強奪、原住民の奴隷労働と搾取、国内余剰人口の移民、自国の工業製品の市場拡大、不平等貿易、植民地経営の官吏派遣などである。

 

近代国家の具体例としては、スペイン、ポルトガル、オランダ、ロシア、イギリス、フランス、ベルギー、ドイツ、イタリア、アメリカ、日本などの帝国である。

政治と経済と軍事と思想が結託した国家独占資本主義段階の帝国主義列強諸国が、植民地収奪の権益を争い世界分割を行ったのが、第一次大戦につづく第次大戦だったのだ。

戦争は、自由と民主主義を標榜しながら、自国第一、民族第一、国益第一の膨張主義,征服主義、覇権主義の帰結にほかならない。

 西洋列強は、他者―異人―他民族―他国を、自国の利益、価値観、主義主張、原理によって支配する事を正当化する。その思想は、「適者生存」、「自然淘汰」、「優性人種」、「白人の責務」などをかかげる疑似科学の社会進化論、進歩史観にもとづく。

ダーウインの生物進化論を人類社会へ幼稚に適応する無邪気な学説は、「野蛮から文明へ」という歴史の発展段階説を捏造した。

その理論は、権力者と結託した資本家階級の野蛮な利己心を擁護する邪説にすぎない。

西洋列強の啓蒙思想は、未開の無知蒙昧社会を「文明開化」する資本主義経済体制を正当化するイデオロギーとなった。

その理論は、王政を打倒した「市民階級」―ブルジョワジーと労働者階級の私欲・利己心を正当化する邪説にすぎない。

 

◆論点11.3 『経世済民』の「済民」-道義心を欠落させた資本主義経済の拡大

『経世済民』とは、江戸時代の「万民の上に位する」武士階級の政治スローガンである。太宰春台は、〈天下国家ヲ治ルヲ経済ト云。世ヲ経シテ民ヲ済(すく)フト云義也〉と定義した。

『経済』は、民・民の略であり、政事と経済(生産と消費)を一体化した概念である。

民ヲ済フ」とは、西郷の遺訓第8条「忠孝仁愛教化の道」―「敬天愛人」にほかならない。

人間、人々、人民が生きる基本は、衣食住の消費である。社会生活の基本は、生きるための消費財の採集・生産・分配・贈与・収奪から製造・交換・売買などまでの『仕事』である。

配慮にもとづく「沈黙貿易」は、贈与経済社会であった。未開の野蛮といえるか。

武力にもとづく収奪と搾取は、奴隷経済社会をうみだした。貪欲な野蛮である。

契約にもとづく交換と売買の拡大は、貨幣経済社会をうみだした。

 

経世済民が意味する政治・行政をふくむ広義の「経済」が、貨幣経済活動を意味する狭義の「経済:economy」となったのが近代社会である。

近代社会の経済活動は、『生活』と『仕事』を分離した。

近代社会の中心プレイヤーは、壮年期世代が結社する株式会社という企業組織体である。生活から分離された『仕事』は、資本家・株主―経営者・雇用者―従業員・賃金労働者という三者の役割分担、職業の分業体制となった。

近代社会の経済活動は、個人の仕事・生業・稼業・家業、②法人の企業・収益事業、③国家の殖産興業・福祉事業の各層の『仕事』が連携する場―市場における貨幣流通である。

 

その中軸は、②法人としての民間企業―営利追及を自己維持の原理とする私企業である。私企業の「貨殖興利」思想は、広義の「経済」が意味した「経世済民」から「民を済ふ」という道義心を欠落させていった。

近代国家の「民を済ふ」事業は、経済活動から分離されたのだ。『生活』と『仕事』が分離したからである。

『経世済民』の『済民』は、福祉国家の政治・行政の領域に移ったのである。

 

◆論点11.4 道義心なき経済(資本主義)と政治(民主主義)の世相

20181120日のトップニュースは、日産自動車会長の逮捕である。東京地検特捜部は、有価証券報告書に虚偽の役員報酬を記載した罪で会社をふくめて起訴するようだ。

50億円の報酬を隠蔽し、会社資産を私物化する私欲、貪欲の醜態である。卑しい、せこい、あさましい、みっともない、大企業経営者の道義心の欠如を世に知らしめた。

 

・役員報酬の決定手続きと報酬額が開示されるならば、5年間で100億円の高額報酬であっても、何の問題もないのか。

・欧米の大企業トップの報酬は、年額20億~30億円が相場らしいが、何の問題もないのか。

・世界の上位8人の超富裕層の資産総額は、世界の貧困層の35億人分とほぼ同じらしいが、何の問題もないのか。

・億万長者たちが、タックスヘイブン(租税回避地)を利用して合法的に脱税する浅ましさには、何の問題もないのか。

 

問題は、企業経営と倫理道徳の関係である。企業の社会的な存在意義の問題である。

日産自動車は、収益拡大のために地方に工場をたてた。地域の雇用と納税に貢献した。しかし、業績が悪化した。持続可能ではなくなった。

そこで企業のトップに辣腕の外人経営者をむかえた。工場閉鎖、2万人の従業員解雇、地域経済の破壊をともなうコスト削減、V字型業績回復を達成、名経営者・コストカッターの英雄として称賛、そして高額な役員報酬を当然視、その公開を恥じて虚偽記載にいたる。

アメリカのトランプ大統領の言動は、民主主義政治の道義心の劣化を示す。その国家思想は、政治と経済の一体化、国家が社会を統制する国益主権主義、国家企業思想である。

国境をまたぐ国際政治状況は、民主主義を標榜する先進国、主権国家、国民国家がせめぎあう自国第一主義、自分ファースト、国益至上の醜悪なる私心、私利私欲、私情競争を是とする、自己中心と拝金主義が結託した大衆迎合(ポピュリズム)、衆愚政治の様相である。

 

国家主義者は、国家を「国民、民族の共同体」とみなし、領土内に住む人間の社会生活を全的に統制したがる。

国益追及を絶対的価値として、国家の私欲を貪欲に追及する世界資本主義と国家民主主義体制は、国家間の猜疑心を増長し、戦争の抑止力という名目で軍事力の強化と核武装を正当化する。

国益至上の国家主義は、「残忍で野蛮」な戦争にそなえる軍事力競争を必然とする。

日本国民のおおくは、平和主義をかかげる日本国憲法を是としながらも、日米安保軍事同盟によるアメリカの核の傘で自分の身を守ることを選ぶ。

西郷遺訓第11条は、これらの現実を「野蛮―残忍な貪欲」とみなす。「文明―慈愛の道義」からほど遠いではないか。

経済と政治と倫理道徳の関係については、アダム・スミスにはじまる経済学から社会科学まで、学者や研究者がさまざまな知見と学説を屋上に屋根をかさねているようにみえる。

 人類の叡智は、どのような結論を出すのだろうか。人工知能(AI)は、資本主義と民主主義の未来世界をどのように予言(シミュレーション)するだろうか。

 

◆論点11.5 「野蛮―残忍な貪欲」経営から「文明―慈愛の道義」経営へ

「企業の社会的責任」CSR:corporate social responsibilityという言葉がある。

ひとつの企業活動は、社会に対してさまざまな利害関係の影響をおよぼす。

その企業は、自らの社会的責任を自覚しなければならない。自分の企業の利益だけを追求すべきものではない。

企業の存在意義とその価値は、社会との関係において判断すべきである。売上高や利益など過去の財務指標の数値だけでは、「企業の社会的責任」能力の判断をあやまる。

その判断に関連して「ESG投資」という言葉がある。

投資家が、環境(Environment)、社会(Social)、統治(Governance)に対する企業の対応を考慮して行う投資基準を意味する。

環境への責任、社会への責任、そのための企業統治を重視することが、財務指標からはみえにくいリスクを排除し、投資への配当を実現する持続的成長や中長期的収益につながる、という考え方である。

ESG投資により企業価値を上げるという発想である。

 

環境への企業責任、社会への企業責任を具体的に定義したものにSDGsがある。

SDGs―20159月の国連総会で『我々の世界を変革する:持続可能な開発のための2030アジエンダSustainable Development Goals(持続可能な開発目標)が採択された。

 以下の17の目標と各目標に付随する169のターゲット項目が定義されている。

1.貧困をなくす  2.飢餓をゼロ  3.人々の保健と福祉  4.質の高い生涯教育

5.男女の平等  6.安全な水とトイレ 7.クリーンなエネルギー  8.働きがいと経済成長

9.産業と技術革新の基盤  10.人や国の不平等をなくす  11.住み続けるまちづくり

12.作ると使う責任  13.気候変動への対策 14.豊かな海の保護 15.豊かな陸の保護

16.全ての人に平和と公正  17.組織的に協働して目標達成

DDGsの理念は、あきらかに「野蛮―残忍な貪欲」経営から「文明―慈愛の道義」経営へ転換することを主張する西郷精神に符合するだろう。

長野県に伊那食品工業という会社がある。経営方針は、「年輪経営」と称する「持続的成長と中長期的収益の維持」である。ESG投資だのSDGsなどの理念を先取りして実践している企業である。

その会社会長のインタビュー記事を引用する。

・世界では「お金があれば幸せ」という単純な拝金主義がまかり通っています。

・わが社は、「約450人の社員みんなが幸せになるような会社をつくり、社会に貢献する」という理念を持っています。

・欧米流ではなく、年功序列型賃金、終身雇用、新卒採用という「日本型経営」の原則をかたく守ってきました。

・すべては50年先、100年先を見据えた長期的な視点に基づいています。

・売り上げや利益などの数値目標は掲げませんし、急激な成長も抑えてきました。

・わずかずつでも確実に成長を重ねて、永続を目指す「年輪経営」を志しています。

・経営者の報酬は業績の見返りですが、何らかの限度があるべきでしょう。

・これからの日本は人間の幸せを真剣に考える経営者を増やしていかねばなりません。

大和証券グループは、社長交代を契機にして、経営戦略の柱にSDGsを掲げ、ESG投資への積極的な取り組みをはじめた。その社長のインタビュー記事を引用する。

・社会全体が短期的な視野に立った利益の追及、収益主義に陥ってしまっています。

・長期的な視野、ビジョンを持って、企業としての経済的価値と社会的価値の両立を目指します。

・証券会社は市場経済の恩恵を受けています。ですから、市場経済のひずみから生じている問題の解決のために、稼いだお金、利益を還元していくべきだと考えています。

「日本型経営」に反対して、欧米流をグローバルスタンダードとみなして肩入れする学者や経営者や経済評論家は、つぎのように主張する。

年功序列型賃金は、能力主義・業績主義に反する。終身雇用制は、人材の流動性を阻害する。能力の高い経営者は、高額報酬を正々堂々と開示すべきだ。株価と配当で評価される経営は、毎期の利益目標に執着することもやむなし。

世界の潮流は、報酬年額20億円を当然とする米国流の「野蛮―残忍な貪欲」経営を否定する方向をめざしていることは明らかだろう。

西郷思想からみれば、「日本型経営」をかかげる伊那食品工業は、「文明―慈愛の道義」経営の先端企業だと評価できるだろう。

ローカルの地で社員450人の伊那食品工業がかかげる日本型経営の「年輪経営」こそが、企業規模重視の欧米流グローバルスタンダードに代わる、ローカル・ナショナル・グローバルが均衡する世界標準になるべきではなかろうか。

『仕事』中心の近代経済思想を「抜本塞源」し、『生活』中心の「人間の幸せを真剣に考える」未来経済思想への挑戦こそが、世界標準になるべきだろう。

「壮年期世代を典型とする人間像―父親の競争社会、仕事中心思想」から「少壮老の人生毛作を生きる人間像―母親の養育社会、生活中心思想」への転換である。

 

◆論点11.6 道義国家{大政敬天愛人==>国政敬天愛民<==生活敬天愛隣

西郷は、西欧流の近代国家思想を「文明にあらず、道義心なき野蛮」と断じる。

国益至上の国家主義は、天意を軽視し、正道をふみはずし、「道の普く行はるるを賛称する」ことなく、人間の欲望を肥大化させる野蛮な邪道―「軽天愛己」とみなされる。

己を愛するは善からぬことの第一也。」(遺訓第26

 

1)国家と道徳の関係

国家主権を絶対的に神聖化する国家思想は、「社会」と「国家」を一体化し、国家が社会を全面的に支配すべき、支配できる、とする国家絶対主義といえる。

西洋の国家絶対主義は、キリスト教への信仰心を前提にして、王様政権にしろ立憲政治ににしろ国家権力者が、国民の精神的領域までも支配することを正当化した。

明治国家は、大政奉還―王政復古―五カ条の御誓文―天皇親政をかかげ、キリスト教に対抗するために「天皇教」をもって、国民統合・人心帰一の基軸とした。

昭和維新をとなえる皇道派は、 「天皇が天下を治める道は皇道である。皇道はまことの道、正大公共の道である。その道は万国共通の真理の道である。天皇が統治する日本こそが、万邦無比の道義国家である」と宣言するまで舞い上がった。

 

古代からつづく祭政一致、宗教と政治の一体化、国家による国民道徳支配の基層は、近代国家の立憲政治にも引き継がれている。

ところが「敬天愛人」にもとづく西郷の道義国家の構想は、国家による国民の道徳支配を前提にするものではない。

西郷が主張する道義心は、万民の上に位する公職者・公務員(政治家、官僚、裁判官、警察、軍人)が、下々の社会生活の安全と幸福の顕正を害する邪道を排除する精神、正道を踏む公平無私の破邪の精神であって、下々の国民に強制するような道義心ではないのだ。

西郷の道義心の基準は、超越的な信仰とは無関係であって、あくまでも下々の社会生活の安寧である。

 

2)社会と国家の関係

日常生活における個人の幸福な人生基盤は、少壮老の世代をたどる社会生活にある。その生活は、全面的に政治―国家ー法律に支配されるわけではない。

政治とは無関係にローカルな「身の丈」集団の豊かな人間関係は、仕事、売買、芸術、スポーツ、学問、趣味などを媒介にして、国籍や国境をやすやすと横断する時代となった。

政治―国家―法律は、社会生活にとって必要な機能の一部にすぎないのだ。グローバル社会を生きる主権国家の政治システムは、『社会』と『国家』を明確に区別しなければならない。

領土に閉じたナショナル社会の民主主義政治は、自由に国境をこえるグローバル社会に対応できなくなっている。国政民主主義の限界がはっきりしてきたのだ。

国益至上の国家主権を相対化する国家思想を構築しなければならない。

 

3)生活と国政と大政 ~修身―斉家―治国―平天下

個人の自由を基底とする現代の民主政治とは、『自治に基づく社会生活』が解決できない課題に、『法治に基づく国政』が対応することである。

道義に基づく大政』は、国境に閉じた国政に、地球環境と人類社会の視点から、破邪顕正の基準・課題解決方針を提示する。

この「生活と国政と大政」の連関構造は、儒教の修身・個人―斉家・社会―治国・国民―平天下・人類の政治思想に対応するものだ。

国連が提唱する『我々の世界を変革する:持続可能な開発のための2030アジエンダSDGsは、『道義に基づく大政』への具体的な要求事項であると理解できる。

『国政』の上に『大政』を配置する西郷思想は、万民の上に位する公務員を憲法公務員―国政公務員―自治公務員に大別する政治システムを要求する。

 

a.憲法公務員

 大政システム―国政への要求整理、政策代替案、公務員教育と選抜、憲法改正草案など

b.国政公務員

 国政システム―国政公務員の選挙、政策選択、予算、立法、行政・司法・軍隊の公共事業

c.自治公務員 

自治システム―少壮老の世代ごとの生活と仕事の支援、国政への要求を提示、国政の評価

 

◆論点11.7 民主政治の形骸化を解決する大政システムの意義 ~憲法改正の視点

2018年の政治状況、政党政治、衆参二院制、国会審議、立法府の現状は、主権在民と三権分立の視点からみれば惨憺たる様相を呈しているとわたしは思う。

 

1)主権在民と三権分立の形骸化 ~「立法前野」政治システムの必要性

 社会生活において発生する政治への要求は玉石混交、メディアとネットにあふれているが、社会生活と政治の通路はきわめて限られている。

選挙でえらばれない御用学者、与党支持の有識者、専門家と官僚による政府諮問会議、懇談会などによって、政策立案と法案が準備されるのが現実である。主権在民の形骸化である。

官邸による圧倒的な行政権力主導、行政権力機構の肥大化は、国権の最高機関である国会の権能弱体化と反比例している。省庁の公務員は、もっぱら官邸と内閣府への忠誠と忖度と自己保身にはげむ。最高裁判所は、「統治行為論」によって憲法審査権を放棄する。「立法―行政―司法」という三権分立の形骸化である。

 

根本問題は、立法の前提となる「民意―課題―政策―制度設計―効果予測」という『立法前野』の政治システムの不在である。

その不在を埋めるのが大政システムの存在意義である。

『我々の世界を変革する: SDGs』を政策課題とする大政システムは、どぶ板議員や世襲議員やタレント議員や利権代表議員の能力では荷がおもすぎる。人格と識見に卓越した「賢哲公務員」でなければならない。

□遺訓第30条 命ちもいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕抹に困るもの也。此の仕抹に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。

 

問題は、「賢哲公務員」をいかに育成し、選抜し、実績を評価するかである。そのためには、日本国憲法の抜本的な改正を必要とする。

 

2)国政選挙制度に関する憲法改正の視点

 大政システムを実現することに焦点をしぼって憲法改正のポイントを列挙する。

・参議院を廃止、憲法議院の新設 ~憲法議院と衆議院の二院制

・憲法審査会の機能を憲法議院に移管 ~憲法審査機能の制度化

・憲法第96条憲法改正手順の抜本的改正 ~憲法議院が憲法改正草案を作成

・国政への要求を収集し、政策代替案を国政に提示するシンクタンク機関の設置

・公務員をめざす国民を育成する教育機関の設置

・公務員を選挙する能力を国民に教育し、選挙資格を審査する選挙機関の設置

・選挙制度を運用する人工知能と情報システムを開発する政治技術機関の設置

・その他

 

 

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