4.遺訓第2条 「国体定制」の論点 ~大政と国政の分離 2018年4月30日
■遺訓第2条:
賢人百官を総べ、政権一途に帰し、一格の国体定制無ければたとい人材を登用し、言路を開き、衆説を容るるとも、取捨方向無く、事業雑駁にして成功有るべからず。昨日出でし命令の、今日忽ち引き易ふると云ふ様なるも、皆統轄する所一ならずして、施政の方針一定せざるの致す所也。
1)遺訓第2条の解釈
この遺訓は、国家事業を成功させる「国政」の基本的条件を述べる。
西郷が生きた日本は、米英仏露蘭からの開港強要→不平等条約の締結→尊王攘夷運動→大政奉還→王政復古の大号令→戊辰戦争→幕府崩壊→明治新政府→五カ条のご誓文→東京遷都→廃藩置県→西欧使節団派遣→「征韓論」政変→明治10年の西南戦争、そして自由民権運動へという革命の時代である。
農民や町民たちは、開国にともなう物価高騰に困窮し、各地で一揆をおこし、打ちこわし運動、ええじゃないか運動、窮民救済の新興宗教がひろがり、外人殺傷事件などが頻発する世相である。
明治維新とは、軍事力を背景にして不平等条約を押しつけてくる西欧列強の侵略=植民地化に対抗するための政権交代・破壊と建設・革命運動である。
その革命思想は、端的につぎの三つに集約できる。
➊鎖国(攘夷)から開国(交易)へ
❷幕藩分権体制から天皇集権体制へ
❸士農工商から四民平等へ
この明治維新に命をかけた西郷の政治運動の原点と原理は、薩摩藩主島津斉彬の遺志である。
その遺志は、地球儀から東洋の端の日本列島を俯瞰する➀グローバル世界の中の日本認識、②文明開化と富国強兵による中央集権国家の建設、③日中韓が連帯して帝国主義列強に対抗する東亜外交の三点に要約できる。
主君斉彬のこの遺志を心中ふかく抱き、明治維新に命をかけた西郷の政治運動は、遺訓第2条の文脈をときほぐせばつぎのような論理となる。
a.西欧列強に対峙する国家建設のために
b.一格の国体定制を定め
c.政権を一途に帰し、統轄する所をひとつにし
d.取捨方向を明確にし、施政の方針を一定にし
e.賢人が、百官を総べ
f.人材を登用し、言路を開き、衆説を容るる
2)国体と定制の分離
遺訓第2条の「国体定制」の意義を、遺訓第1条の「大政と国政の分離」に接続させれば、「国体定制」は一体ではなく、「国体」と「定制」を分離し、国体を大政とし定制を国政に対応させる構図となる。
国体:大政 廟堂 権威
a.西欧列強に対峙する平天下の世界精神 ➡ 敬天愛人
b.一格の国体 ➡ 天道を為す
定制:国政 政府 権力
c.政権を一途に帰し、統轄する所をひとつにする ➡ 中央集権
d.取捨方向を明確にし、施政の方針を一定にする ➡ 文武農、富国強兵
e.賢人が、百官を総べる ➡ 君ー臣ー民の道義政体、徳治と法治と自治
f.人材を登用し、言路を開き、衆説を容るる ➡ 四民平等、民主主義
◆「国体」とは、普通名詞の意味では国家の本体、国格、国柄、国家の特質である。現代政治では「国のかたち」とよび、日本国憲法に表明される。
明治4年、鹿児島に隠退していた西郷は、つよく要請されて明治新政府に出仕することになった。それに際し「24カ条の意見書」を提出した。その一部が、「国体」に言及する。
~皇国の国体は此の通り、目的は此の通りと、本朝中古以上の体を本に据え、西土西洋の各国までも普く斟酌し、一定不抜の大体を知るべし。
西郷が意図する「国体」は、「我が国の本体」(遺訓第8条)、「忠孝仁愛教化の道は政事の体本、萬世に亘り、宇宙にわたり、不変の要道、天地自然の物、西洋と雖も決して別無し」(遺訓第9条)、「正道を踏み国を以て斃るるの精神」(遺訓第17条)、「正道を踏み、義を尽くすは政府の本務也」(遺訓第18条)などにある国家の「本体、要道、精神、本務」を意味する。
遺訓が意味する西郷の国体精神の真髄は、和:本朝中古以上の体を本に据え、洋:西土西洋の各国までも普く斟酌した「和洋折衷」、「和魂洋才」といえる。
その精神は、「西土西洋の各国までも普く斟酌」したものであるから「西洋と雖も決して別無し」であり、現代風にいえば人類社会=グローバル世界の普遍性である。
その普遍性は、天道を行う大政の根本原理=正道=忠孝仁愛教化の道=敬天愛人に集約される。
西郷の「敬天愛人」思想は、一国の憲法をこえて国際政治の世界人権宣言や国連憲章や国際法の理念に相当する。
この普遍性からみれば、狭い領土に閉じたひとつの主権国家の国益主張や国粋主義などの「国政」は、「大政に私心をはさむ」私利私欲にすぎない。
大政と国政を分離するという西郷の政治思想は、グローバル世界における主権国家の枠組みを相対化する決定的な論点である。
この論点が、島津斉彬の遺志である③日中韓が連帯して帝国主義列強に対抗する東亜外交方針に接続する。
◆「定制」とは、国体にもとづき国政を執る諸制度である。
西郷が述べる「定制」は、「政の大体は、文を興し、武を振ひ、農を励ますの三つに在り」(遺訓第3条)、「広く各国の制度を採る」(遺訓第8条)、「西洋の刑法」(遺訓第12条)、「租税の定制」(遺訓第13条)、「会計出納の制度」(遺訓第14条)、「常備の兵数」(遺訓第15条)など、国家の事業百般を執行する近代国家の諸制度を意味する。
具体的な「定制」改革は、廃藩置県、国軍の創設、教育制度の整備、地租改正、財政制度の整備、銀行創設、封建的諸規制の撤廃、神仏分離・廃仏毀釈、産業と企業の保護育成、殖産興業・科学技術振興など、文明開化をスローガンにした政府活動の「国政」である。
これらの国政の政治思想は、➊政権を一途に帰す天皇制中央集権、❷施政の方針を一定にする文武農、富国強兵、❸賢人が百官を総べる君ー臣ー民の道義政体、❹言路を開き衆説を容るる四民平等、民主主義に集約できる。
その政治思想を端的に要約すれば、近代国家建設の文明開化である。
◆西郷の国体定制は、大政;敬天愛人―国政:文明開化である。ここに天皇制が、明言されないことに留意しよう。
3)「国体定制」と「五カ条のご誓文」の関係
明治維新は、幕府から朝廷に大政を奉還して「国体定制」を抜本的に転換する破壊と創造の革命運動であった。
その最大の変革は、鎖国・攘夷から開国・交易への転換である。この転換は、鎖国体制において一体化していた天下国家思想が解体し、天下の世界と個別の主権国家へ分離せざるをえないことを意味した。
明治元年(1868)3月14日、明治天皇は、維新政府の基本方針を神に誓うかたちで、五カ条のご誓文を公布した。
◆五カ条のご誓文
1)広く会議を興し万機公論に決すべし
2)上下心を一にして盛んに経綸を行ふべし
3)官武一途庶民に至る迄各其の志を遂げ人心をして倦まざらしめん事を要す
4)旧来の因習を破り天地の公道に基づくべし
5)智機を世界に求め大いに皇基を振起すべし
この誓文を、「国体と定制の分離」という視点から、あえて解釈すればつぎのようになろう。
国体:
4)旧来の因習を破り天地の公道に基づくべし
5)智機を世界に求め大いに皇基を振起すべし
定制:
1)広く会議を興し万機公論に決すべし
2)上下心を一にして盛んに経綸を行ふべし
3)官武一途庶民に至る迄各其の志を遂げ人心をして倦まざらしめん事を要す
定制の(1)(2)(3)は、遺訓第2条の「f.人材を登用し、言路を開き、衆説を容るる」とほとんど同じだと理解できる。言葉だけをみれば、近代国家の民主主義の思想とも矛盾しない。
だが、明治政府の現状はどうであるか。
公家と諸侯と旧藩士たちが、「広く会議を興し、盛んに経綸を行う」といえども「取捨方向無く、事業雑駁、成功あるべからず」ではないか。
公議政体とはいえ、小田原評定よろしく朝令暮改をくりかえしているだけではないか。(明治2年の官吏公選、政体書の官制身分)
岩倉西欧使節団の同行者である大久保や伊藤などを主流とする明治政府は、たしかに五カ条のご誓文のいう「4)旧来の因習を破り、5)智機を世界に求め」を実行している。
では、「4)天地の公道に基づくべし、5)大いに皇基を振起すべし」を具体的にどのような政策としているか。
西洋流の文明開化を唱えながら「猥りに彼れに倣ひ」の西洋かぶれ、「国体なき」舶来迎合の姿勢こそが、問題ではないのか。
西郷は、「5)智機を世界に求める」ことに反対ではない。「西土西洋の各国までも普く斟酌すべし」といっている。
だからこそ「先ず我が国の本体」を明確にしなければならないと強調するのだ。
■遺訓第8条:
広く各国の制度を採り開明に進まんとならば、先づ我が国の本体を据ゑ風教を張り、然して後しずかに彼の長所を斟酌するものぞ。否らずして猥りに彼れに倣ひなば、国体は衰頽し、風教は萎靡して匡救す可からず、終に彼の制を受くるに至らんとす。
4)王政復古と文明開化の矛盾 ~西郷思想の挫折
五カ条のご誓文で問題とすべきは、国体にかかわる西郷思想との関係である。
「旧来の因習を破り、智機を世界に求め」は、西郷思想と齟齬はない。問題は「天地の公道に基づくべし、皇基を振起すべし」である。
辞書にある「皇基」とは、「天皇が国を治める事業の基礎。治国の基礎」である。治国とは、国政である。王政復古の御誓文は、天皇が行う国政の基礎を振起すべきことを「天地の公道」とするのだ、と理解できる。
西郷は、「廟堂に立ちて大政を為すは天道を行うもの」という。ここで明らかに「大政―天道」と「国政―天地の公道」を対比する構図がうかびあがる。
「天道」と「天地の公道」の政治思想の違いは、儒教・朱子学と近代民主主義の違いに要約できる。その詳細な検討は別途おこなう。
王政復古の御誓文と西郷思想との決定的な違いは、御誓文の政治思想が大政と国政を分離せず、旧態依然とした一国主義、国家全体主義にとどまる点である。
西郷思想からみれば、明治新政府の実態は、王政復古と文明開化の矛盾とみなされる。
そもそも王政復興の大号令は、佐幕開国に反対した尊王攘夷運動の勝利宣言である。
尊王攘夷の思想的根拠は、幕府の儒教・朱子学に対抗した国学・水戸学である。「皇基を振起すべし」の源流は、水戸藩が先導した「万世一系」を金科玉条とする国学・平田学・国家神道である。
そもそも尊王攘夷の思想は、「智機を世界に求め」、「西土西洋の各国までも普く斟酌する」という立場を拒否する。それは異国を打ち払う鎖国思想である。
しかし、明治政府は文明開化路線を選択せざるを得なかった。尊王攘夷から尊王開国へ転換せざるをえなかった。
だが、その転換にあたった岩倉、大久保、木戸、伊藤らの明治政府の指導者たちには、開国に向けて、西洋列強のグローバル世界に対抗する思想的基盤がなかった。
そこには日本列島に閉じたナショナリズムの「神国日本の皇基振興」というような閉鎖的精神性しかなかった。その精神性は、昭和の戦時体制にいたり、古事記・日本書紀の記紀神話を絶対視し、「神国日本の国体護持」をさけび、蛸壺的独善の国粋主義や国益至上主義などに行き着いたのであった。
西郷の「敬天愛人―文明開化」の政治思想は、ナショナリズムをこえて世界を俯瞰する天道思想である。明治から昭和にかけて確立した天皇制絶対主義の『国体』(万世一系の天皇大権、不可侵の権威、現人神、神国思想)を超越するものだ。
明治政府と西郷思想との違いは、明治6年の「征韓論」政変において具体化する。
西郷は、斉彬の遺志である「③日中韓が連帯して帝国主義列強に対抗する東亜外交」を実現するために「征韓」ではなく「遣韓」を主張した。そして権力闘争にやぶれた。
明治政府の「王政復古と文明開化の矛盾」は、西郷思想の挫折をもたらした。
しかし「大政」を世界政治とし、「国政」を国家政治として分離する西郷の政治思想は、明治維新後150年をすぎた現代世界の政治状況を問いなおす重要な視点になるであろう。