5.遺訓第3条の論点 ~文を興し、武を振ひ、農を励ます 2018年7月3日
■遺訓第3条:
政の大体は、文を興し、武を振ひ、農を励ますの三つに在り。其の他百般の事務は皆此の三つの物を助るの具也。此の三つの物の中に於て、時に従ひ勢に因り、施行先後の順序は有れど、此の三つの物を後にして他を先にするは更に無し
□第3条の解釈
農とは、農民と農業である。
国家が、国民から徴収する税金の源泉は、農業の生産物である。農政振興の政策(勧農)は、国民の大多数をしめる農民の生活を豊かにすることであり、このことが豊かな国(富国)の基礎である。➡勧農富国
武とは、高度な殺傷能力(武具、軍備)によって敵をたおし、国民(平民)生活の安全を保護する武士である。
近代国家の「武士」とは、国内の治安を維持する警察と外国と交戦する軍隊である。西洋列強の侵略に対抗するためには、軍備を充実させなければならない。➡富国強兵
文とは、文明、文化、文教、文芸などを包含する「学問」を意味する。
学問の究極の目的は、国民生活の幸福を実現する生活条件を「正道」とみなし、国民生活の幸福を危害する生活条件を「邪道」とみなし、その「破邪顕正」の判断基準を明らかにすることである。
➡文明開化
「破邪顕正」の判断基準を探求する者が、仁徳を修練して私心を超越した聖人君子である。
破邪顕正を実行する者は、万民(国民)の上に立つ為政者である。為政者とは、国家権力を行使する政治家、文官、武官、公務員などである。
文は、「破邪」のために、「武」を行使することに正当性をあたえる。
文は、「顕正」のために、為政者に「修己治人―滅私奉公」の修身教育をおこない、国民に「忠孝仁愛」の道を教化する。
◆論点3.1 明治新政府の「政の大体」と「文武農」の関係
明治維新は、西洋列強に対峙するために、文明開化、殖産興業、富国強兵を目標として、中央集権の近代国家を建設する政治革命である。
その革命において、「政の大体」を「文―武―農」とする西郷の主張は、「武」は強兵に対応するとしても、「農」を富国-殖産興業の基礎とすることは、いかにも古色蒼然としたものにみえる。
さらに「文」とは、文明開化の「文」、西洋文化と文物の「文」というよりも、四書五経の漢学や儒教道徳を想起させる「忠孝仁愛教化の道は政事の体本」(遺訓第9条)という国民教育の「文部行政」のことだとすれば、ますます封建思想の印象をつよくする。
端的にいって、文武農の強調は、堯舜の世から春秋戦国時代にいたる古代中国の政治思想を想起させる。西郷を封建主義―農本主義―武力主義の反動的な政治指導者とみなす論者の根拠となるだろう。
文明開化と封建主義は、あきらかに対立する。殖産興業の資本主義に対立する農本主義も、あきらかに時代錯誤にみえる。武力を重視する富国強兵と軍国主義だけが、西郷と合致するだけのようである。
西郷は、「政の大体」をなぜ文武農の3本柱とするのか。それは遺訓第1条、第2条の天道思想、敬天愛人とどのように関係するのか。
この問題をかんがえる前に、明治維新により近代国家建設をめざす政治制度の歴史を概観する。
*
(1)1867(慶応3)年~明治元年(1868年)
王政復古の大号令、三職(総裁・議定・参与)―(総裁局、神祇事務局、内国事務局、外国事務局、軍防事務局、会計事務局、刑法事務局、制度事務局)、徴士・貢士制度(「下ノ議事所」の議事官)、五箇条の御誓文
(2)1869(明治2)年
政体書 太政官制(立法・行法・司法の三権)―{議政官(上局、下局・公議所)、行政官(神祇官、会計官、軍務官、外国官、民部官)、刑法官} 官吏公選 版籍奉還
太政官制(2官6省)、神祇官(宣教使)、太政官(待詔院、集議院)―{民部省、 大蔵省、兵部省、宮内省、外務省、工部省、弾正台・刑部省→司法省、大学校、開拓使}
(3)1871(明治4)年~ 1875(明治8)年
廃藩置県、太政官制(三院制)―正院(太政大臣、左大臣、右大臣、参議) 左院 右院
太政官制―(大審院、上等裁判所、地方裁判所) 正院(太政大臣、左大臣、右大臣、参議) 行政(大蔵省、陸軍省、海軍省、司法省、宮内省、外務省、内務省、文部省、教部省、工部省、農商務省、開拓使)
(4)1885年(明治18年)~ 1889年(明治22年)
内閣制(太政官制廃止)―宮中、立法、行政、司法 宮中(内大臣、宮内省、内大臣府) 立法(元老院⇒憲法発布 帝国議会(貴族院、衆議院)) 行政(内閣―外務省、内務省、大蔵省、陸軍省、海軍省、司法省、文部省、農商務省、逓信省)、司法(大審院、上等裁判所、地方裁判所) 諮詢(枢密院、枢密顧問官)、会計検査(会計検査院)
明治維新から立憲政体にいたる政治制度を概観したとき、「政の大体は、文を興し、武を振ひ、農を励ますの三つに在り。其の他百般の事務は皆此の三つの物を助るの具也」とする西郷の主張をどのように解釈すべきか。
「武」は、あきらかに軍防事務局⇒軍務官⇒兵部省⇒陸軍省、海軍省に対応する。
だが、「文」を神祇官(宣教使)、大学校、文部省、教部省に対応させていいものだろうか。農を農商務省に対応させたとしても、これらを近代国家の「政の大体」とする理解は無理なのではないか。
◆論点3.2 西郷は「政の大体」をなぜ「文武農」の3本柱としたのか?
西郷の「文武農」思想は、学者が探求する机上の政治学ではなく、概念的な論理操作の結果でもない。
それは、西郷の波乱万丈の人生経験の帰結である。自らの人生行路において、農⇒武⇒文の順序で体験した実践行動の結晶である。
その西郷の一生を以下に概観する。
*
1期:少年期 1827年~1844年、0~17歳(17年)
薩摩藩の最下層士族の困窮家庭の長男として少年期をすごす。
2期:農政役人期 1844年~1854年、17~27歳(10年)
郡方書役助という見習い役人の立場から農民の暮らしをつぶさに心に留める。
儒学(朱子学)、陽明学、禅などを下級武士の友人らと学ぶ。
3期:斉彬秘書期 1854年~1858年、27~31歳(4年)
苛斂誅求の農政による農民困窮の実情に基づき、農政改革建白書(農政に関する上書)を藩に提出。
西郷の思考が、斉彬の薫陶のもとで、薩摩藩の狭く限られた農政分野から、日本の国政へ、そして西欧列強が対峙する世界を地球儀から俯瞰する視野へひろがる。
4期:流人思索期 1858年~1864年、31~37歳(6年)
粗雑な囲い牢に押し込められ、沈思黙考の生活。親戚や旧知と手紙をやりとりしながら国内情勢を知り、たくさんの書籍を読み、思索と詩作に没頭、志操を堅固にして、付近の子どもらに「私欲の悪徳」を教え、「黒糖地獄」にあえぐ農民救済の立場からサトウキビ藩政改善の提案など、およそ5年を過ごす。
5期:倒幕参謀期 1864年~1868年、37~41歳(4年) *軍人政治家の絶頂期
前期:蛤御門の変、第一次長州征討、その後の長州処分で見識と胆力を発揮。
後期:幕府の第二次長州征討に反旗、倒幕へ薩長同盟、戊辰戦争、東征大総督参謀。
6期:明治維新期 1868年~1877年、41~50歳(9年)
功労章典禄を私用せず私塾の「集義塾」(後の章典学校)を開設、高踏勇退して帰郷、薩摩藩改革に参与、新政府に出仕、参議、近衛兵と軍制の整備、「勧農建言書」を部下の名義で提言。
「征韓論争」の政治権力闘争に敗北、参議を辞職し下野、600名以上の政府役人・文武官も後を追って鹿児島へ。
鹿児島県知事と協力して私学校:銃隊学校、砲術学校、幼年学校(章典学校)を県下に展開、漢学古典だけでなく西洋事情教育として外人教師を雇用、優秀な学生は国内および海外に留学、農業実習として吉野開墾社を設立、まさに文武農の実践訓練。
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西郷の「農⇒武⇒文」思想は、死生をかけた自らの人生の実践論である。これを「知行合一」と理解する意味で、西郷は大塩平八郎をひきつぐ陽明学派の泰斗のひとりに列せられる。日本の陽明学は、幕府公認の官学である朱子学への対抗思想である。
「政の大体」を「文武農」とする西郷思想は、西郷自身のあまりにも個人的な艱難辛苦の体験によって形成されたものである。
それは、つぎの自問自答の帰結である。
➊農は農民。平民の大多数をしめる農民のくらしは困窮している。
それは、なぜなのか、農民は年貢をお上に年貢を納めるためだけに生きているのか。
❷武は、武士。藩主に仕える少数の武士集団が、平民の生活を統治している。
ちょんまげと刀と裃を着た武士が、農民から年貢を収奪する道義は何であるのか。
❸文は、学問。修身斉家治国平天下の政(まつりごと)を行う為政者の倫理道徳。
朱子学は、為政者である武士たちに、どのように倫理を教えるか。武士たちは、修己治人の修養をどのように実践しているか。
朱子学と武士道の政治思想は、困窮する平民のくらしを救済できるのか。黒船が押し寄せる天下動乱の世の中に対応できるのか。
下級士族といえども武士階級に属する西郷が、この自問自答をせざるを得なかった幕末から明治初年の身分状況を以下に概観する。
◆論点3.3 明治維新前後の人口構成と「文武農」との関係
明治新政府の『統計集誌』や戸籍調査データによれば、幕末から明治にかけて日本の全人口は約4000万人、就業者人口(15歳以上の有職者および戸主)は約2000万人と推定される。
身分別人口と職業別人口を、あえて「文―武―農」にざっくりと分類すれば、つぎのような末広がりのピラミッド構造となる。
〇文―文人 約1%強
文は、文人、貴人、学者、指導者、庶民の教育者など、権威者の意味とする。
皇族・華族 2300人 神職 14万7千人 (0.5%) 僧尼 22万7千人 (0.7%)
〇武―武士 約7%前後
武は、武官、軍隊、警察など武器による統治者、役人など、権力者の意味とする。
士族 109万5千人 (3.6%) 卒 83万人 (2.8%)
〇農―平民 90%以上
農は、農民というよりも、人民、平民、庶民、老若男女の生活者の意味とする。
平民 2726万5638人 (90.6%) 穢多非人51万0451人 (1.7%)
●平民の内訳
農 1520万7千人 (79.21%) 工 67万2千人 (3.50%) 商 126万7千人 (6.60%)
その他10.7% 雑業
175万人 (9.12%) 雇人 30万人 (1.56%)
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五カ条の御誓文には「上下心ヲ一ニシテ」、「官武一途庶民ニ至ル迄」、「皇基を振起」という語句がある。
上と官武は、文と武に対応する。下と庶民は、農に対応する。皇は、皇族に対応する。この対応関係は、大政奉還、王政復古、廃藩置県にもとづく皇族⇒官武⇒人民という中央集権の統治体制となる。
明治政府は、幕藩体制を維持する士農工商の身分制に代わって、「天皇―お上―下々」、「君―臣―民」、「皇居―政府・官僚・軍人―国民」という統治体制を強化して、国家建設の方針を文明開化、殖産興業、富国強兵としたのである。
この統治体制を、西郷の遺訓第1条「大政と国政の分離」、第2条「国体と定制の分離」、第3条「文武農」にあえて対応させれば、つぎのように図式化できる。
〇文 天皇 国体:大政 廟堂 皇族 君 権威
文明開化、万国共通の天道、道義 ➡ 文を興す(敬天愛人)
〇武 お上 定制:国政 政府 官吏(文官、武官) 臣 権力
富国強兵、万国対峙 ➡ 武を振う
殖産興業、資本主義、功利 <=X=> 農を励ます(農本主義)
その他百般の事業 ➡ 内治と外交 立法、行政、司法
〇農 下々 生活: 家族、地域、職業集団、社会 民 農工商、勤労者
上下一心、万機公論、人材登用 ➡ 文を興す(忠孝仁愛教化)
この図式には、あきらかに無理がある。明治政府の方針と西郷の政治思想とに齟齬があることがあきらかになる。
西郷の個人的な人生体験にもとづく「農⇒武⇒文」の強烈な道義精神が、岩倉や大久保らの明治新政府の政治方針と齟齬をきたすことになったのだ。
◆論点3.4 西郷が批判する明治政府の根本問題
遺訓第3条は、「政の大体は、文を興し、武を振ひ、農を励ますの三つに在り。此の三つの物の中に於て、時に従ひ勢に因り、施行先後の順序は有る」とする。
明治維新という「時と勢」の時代状況において「政の大体」で優先すべきは何であるか。
それは、まず「文を興す」ことである。
西郷が批判する明治政府の根本問題は、「天皇―お上―下々」、「君―臣―民」、「皇居―政府―国民」という統治体制において、どのように「文を興し」、そして「武を振ひ、農を励ますか」という政治思想の根幹である。
西郷が意図する「文を興す」とは、遺訓第1条のつぎの論点に集約される。
◇論点1.1 大政と国政の分離
◇論点1.2 廟堂と政府の分離
◇論点1.3 天道と公道の区別
◇論点1.4 権威と権力 ~破邪顕正
◇論点1.5 徳ある者に官職、功労ある者に褒賞 ~人材登用
戦国騒乱の天下を統一した豊臣秀吉のあと、武力なき朝廷は政事に関与せず、天下の「大政」を武家の征夷大将軍に委任した。
征夷とは、京を中心とする権力集団が、辺境の人民を未開人・野蛮人とみなして武力によって征服し、その支配下に従属させる行動である。
縄文時代以降の日本列島の歴史は、辺境を征服して領地を併合拡大していく「征夷」の連続とみなせる。その帰結が、天下を統一する征夷大将軍の誕生である。
明治維新以前の日本史において、「国」とは薩摩藩(島津家)、長州藩(毛利家)など日本列島に割拠した大名300諸藩のそれぞれを意味した。
江戸時代の幕藩体制において、「大政」と「国政」の分離は、天下国家の鎖国体制を維持する安定装置であった。江戸時代に完成した征夷大将軍の下の政治体制は、つぎのように図式化できる。
〇天皇・公家 →大政;徳川家 →国政;藩主・大名・諸家 →平民・農民
この図式において、天皇は「君臨すれど統治せず」という権威を、お公家さんの宮中に集中させる位置にあった。
明治維新は、公家から武家に委任されていた天下国家の「大政」を、徳川家から朝廷・廟堂に奉還させた。
外様大名の下級武士や志士浪人や平田国学心酔者らの結集によって、儒教・漢学・朱子学を規範とする幕藩体制を破壊した。
西郷は、武闘派軍人政治家として、既存体制の破壊者として先頭にたち、革命運動の「破壊」フェーズにおいて、明治維新の功績者となった。西郷は、既存体制の破壊者としての英雄となった。
問題は、「破壊」のあとにつづく「建設」である。
鎌倉時代から続いてきた武家政治に代わるあらたな「大政と国政」の統治体制の建設を、だれが、どのようにすすめるか。
征夷大将軍から天皇へ政治権力を移管する政治思想の根本問題である。明治政府が「天皇―お上―下々」の政治システムを運営する政治思想の根本問題である。
天下に生きる下々の百姓・町民にとって、為政者が征夷大将軍から天皇へ移ることは、殿上人であるお上の人たちの権力交代にすぎない。
そもそも権力交代を必要とした明治維新の原動力は、西洋列強の武力による植民地化に対抗するための、鎖国攘夷から開国交易への転換である。
西郷が批判する明治政府の根本問題は、この転換をになう「天皇―お上」と「大政―国政」と「文―武」の交叉関係の政治思想である。
◆論点3.5 明治維新運動の政治思想の矛盾 ~王政復古と文明開化
鎖国攘夷から開国交易へ転換せざるをえなかった政治革命は、政治思想の脆弱性を内包した。王政復古と文明開化とを並立させた明治維新運動は、政治思想の矛盾というかご都合主義を露呈した。
明治維新運動は、西洋列強の砲艦外交に屈服し、開国を不平等条約により強制させられた「受け身」による革命思想の不安定さ、内部亀裂をかかえながら進んだ。
王政と文明、復古と開化という矛盾をかかえながらの「ご都合主義」精神は、昭和時代の前半まで拡大し、大政翼賛会に支えられた天皇制軍事国家の大日本帝国となっていった。そしてその帝国は、世界大戦に負けて崩壊したのだ。(この「ご都合主義」精神は、天皇を「国民統合の象徴とする」戦後日本の憲法にも継承されているのではないか。)
〇鎖国攘夷と王政復古
この政治思想は、神国日本という島国根性の一国天下思想であり、大政と国政を分離せず一体化する。
大政奉還による王政復古は、尊皇と尊王、皇帝と王様、天皇と国王、権威と権力を区別せず同一化する国家論、世界像の政治思想である。平田国学に心酔した志士浪人たちは、勤皇と勤王を区別しなかった。
国境に閉じて国家主権を絶対視するこの「島国」思想は、あきらかに世界を俯瞰する西洋流の近代化思想による文明開化とはなじまない。
〇開国交易と文明開化
この政治思想は、アジアの端に位置する世界の中の日本列島という自己認識をもたらし、天下の大政と国家の国政を分離することを必然とする。
その分離は、尊皇と尊王、皇帝と王様、天皇と国王、権威と権力を合体させずに区別する国家論、世界像の政治思想である。
尊皇思想による皇帝・天皇が、天道を為す権威者として大政をおこなう。(現代の立憲政治体制においては、憲法制定と憲法改廃の政治システムに相当するだろう。)
尊王思想による王様・国王が、正道を為す権力者として国政を執る。(現代の立憲政治体制においては、大統領や首相が「国王」に相当するだろう。)
西郷が意図する明治維新は、日本列島を天下国家とみなす島国根性の世界観から、天下―世界―人類社会―国家―国民生活という地球を俯瞰する世界像に視野をひろげた。
この視野において、王政復古は国内政治➡国政であり、文明開化は世界政治への対応➡大政となる。
西郷の政治思想は、国境と国家主権を絶対視せず、相対化するという意味で、21世紀のグロバーバル社会の国際政治思想としても意義を失わない。
〇大政奉還、王政復古と文明開化、殖産興業、富国強兵の結末
明治政府は、西郷の政治思想を受け入れる度量がなかった。大政奉還、王政復古と文明開化、殖産興業、富国強兵が内包する矛盾に正面から向き合わなかった。
その結末は、道義心を基礎づける「文を興す」ことなき工学的知識尊重の殖産興業・富国強兵と「商法」重視の資本主義を推進する文明開化であった。
明治政府がめざした文明開化は、たんなる西洋ものまねの欧化主義であり、資本主義が帝国主義に転化した道義なき功利追及主義であり、後の鹿鳴館文化のことでしかなかったのではないか。
その富国強兵は、「武を振う」軍人が天皇を推戴して、「文を興す」ことなき「天皇―お上」の独善的強兵国家、韓国(チョーセンジン)と中国(シナジン)を蔑視する非道国家への道ではなかったか。
日本列島に生きる下々の生活をささえた道義心である伝統的な「神仏儒」の習合思想は、明治政府の神仏分離、廃仏毀釈、鎮守の森(神社)の破壊指令により抹殺された。それに代わって天皇教を強制する国家神道を祀り上げたのであった。
千年以上にわたって日本風土に育まれた「神仏儒」の習合精神は、前近代的な封建制の遺骸として排斥された。西洋文物を崇拝する洋学派の和魂洋才、脱亜入欧、欧化思想は、天皇教の国家神道、皇国史観と奇妙に共存した。
そして大日本帝国の「天皇―お上―下々」の統治体制において、日本人の知性の「文」は閉塞させられた。日本人民は、天皇の臣民・赤子としてそれを受け入れた。
王政復古と文明開化の共存こそが、日本人の知性を閉塞させた明治維新運動のひとつの側面であり、政治思想の矛盾というかご都合主義だとわたしは思う。
◆論点3.6 「大政と国政」と「文武農」の関係 ~破邪顕正
西郷の政治思想は、王政復古と文明開化の矛盾に正面から向き合う。その矛盾を止揚する原理が、破邪顕正の道理、徳義である。
破邪顕正の視点から「大政と国政」と「文武農」の関係を以下のように解釈する。
〇国政の根本を、国民生活の大勢をしめる「農」とする。
西郷にとって「農」とは、農業や百姓仕事を意味するだけではなく、自然環境に適応しながら家族を中心とした人々の生活そのもの、衣食住を豊かにする生業を意味すると解釈しなければならない。
そもそも、古今東西の政(まつりごと)は、人民の幸福実現を標榜するからである。
だから「農」とは、「天皇―お上―下々」という上下構造の「下々」ではなく、「自然―天下―人間」という「天の下の人間たちのくらし」を意味する象徴である。
その人間たちは、家族、親族、婚族、氏族を基本にして部族や民族などの集団社会を形成する。その自然社会は、もともと「天皇―お上」などの国家権力者を必要としなかった。
人間の一生は、善悪、美醜、賢愚、真偽、禍福おりなす正道と邪道が入り乱れる社会において営まれる。人間は、子ども➡大人➡老人という生命力の「少壮老―人生三毛作」の自然に順応して生きて死ぬ。
人々が、みずからの生活の安寧を維持するためには、生活を害する邪悪な行為や集団や邪道な外敵、天災と人災をを排除しなければならない。
共同体の自治能力をこえた集団社会の人口規模と複雑性の拡大は、自然社会における破邪顕正の判断基準を必要とする。その基準において、「破邪」の実行と「顕正」の実行が為されることになる。
これは、部族から豪族へ、豪族から王へ、王を束ねる大王へ、そして大王を天皇と称するにいたる日本列島社会の「国家」形成史の論点となる。(この論点は、明治維新の王政復古の起点を、律令制を準備した聖徳太子の憲法17条に求める考察にむかうだろう。)
〇大政の根本を、国民生活の安寧を保障する破邪顕正の「文」とする。
「文」は、破邪顕正の判断基準を明らかにする哲学であり、知性であり、人格であり徳性であり、端的にいえば道義、倫理である。(現代の国政政治体制においては、国連憲章や世界人権宣言のとりまとめ活動に相当するだろう。)
「文」は、世界政治に対応する「大政」の根本であり、万国共通の天道である。天道・天意によって正邪を判断する。
その判断を行うものが、天帝の天意を洞察する私心なき天子と聖人君子である。その判断基準は、人民生活の「農」にとっての良否である。(この論点は、堯舜を理想像とする古代中国の易姓革命思想に相当するだろう。)
西郷は、万国共通の天道を為す「大政」の精神を「敬天愛人」とする。
敬天愛人を政治方針とする「大政」の下で、国政が国民生活の顕正行動をうながし、国民生活の安寧を保障する。そのかぎりにおいて、権力者が武器を行使する破邪の討伐行動は正当化される。
「敬天愛人」は、「敬天・破邪―顕正・愛人」という構造を内包すると解釈できる。
顕正の実行者は、人民そのものである。顕正の内実は、人民の自治的共同体における相互扶助の日常生活によって具体化されるのだ。(これはコンミューン思想に通底するだろう。)
〇「武」は、武器を行使して「破邪」を実行する権力者である。外敵に対抗するものは、軍隊、軍人、兵士である。内乱を制圧するものは、警察と検察と監獄である。
ここで大きな問題が生まれる。
外敵に対抗する武力・軍隊を「大政」と「国政」のいずれの政治権力とするか、という大問題である。(現代の国政政治においては、国連の平和維持部隊編成や核兵器の問題、日本国憲法の第9条と日米安保条約の問題、自衛権を発動する戦力自己所有と戦力他者委託の問題などに相当するだろう。)
ここでは、とりあえず西郷の「大政―国政」と「文武農」の関係をつぎのように図式化する。
〇天下の世界政治 →文(大政) →武(破邪) →農(国政・人民の生活・顕正)
◆論点3.7 西郷の政治思想の限界 ~革命運動の破壊と建設
大政奉還と王政復古による「廟堂に立ちて大政を為すは天道を行う」その天道は、どのような政治システムによって実現されるのか。
「天皇―お上―下々」の統治体制において、破邪顕正の基準を「お上」である役人に指し示す者は、天皇でなければならない。
では、明治維新において大政が奉還された天皇―朝廷、宮中、公家たちは、どのような振る舞いをしたか。公家の地位を利用して、どのように「文を興す」ことにつとめたか。驕り高ぶり、贅沢三昧にふけり、まことに見苦しく、私心にまみれた天皇側近の公卿もおおかったのではないか。
この現実に西郷の政治思想の限界がある。西郷の政治思想は、実効ある統治体制を実現できなかったのだ。
西郷の「敬天愛人」思想は、明治新政府の「天皇―お上」の現実、権力をもった人間たちの実態をみすえたことから生まれた痛切なる慟哭のさけびなのだ。
明治維新は、幕藩体制を転覆する革命運動である。革命は、単なる権力闘争ゲームではなく、既存体制の破壊と新たな体制創造の建設と表裏一体をなす。
革命の行動には、破邪=破壊と顕正=建設の二段階がある。その行動原理は、破邪顕正の正義感である。
西郷は、破邪―破壊行動家の頭領、軍人政治家としておおいにはたらいた。西郷は、因循姑息な公武合体論や公議政体論では「人民の生活を豊かにしない」という信念により、破邪の実行者として明治維新の功臣とされた。
では、西郷は、近代国家の「大政」と「国政」を、あらたにどのように建設したか。廟堂と政府をいかなる権力関係として、明治新国家の統治体制を築いたか。
西郷は、革命運動における建設者の役割を果たさなかった。倒幕=破邪だけに専念した軍人であった。
戊辰戦争の終結によって、西郷は明治新政府の役人業務を放棄した。「官農建言書」を推進するべく農政大臣の職をつくらなかった。「文を興す」文教大臣の地位も要求しなかった。
高位高官の権力者の地位を捨て、高踏勇退して鹿児島に帰り、温泉と狩猟の生活をよしとした。倒幕という破邪のあとの近代国家建設の仕事は、大久保らの明治新政府の首脳陣に任せた。
遺訓第40条
翁に従て犬を駆り兎を追ひ、山谷を跋渉して終日猟り暮し、一田家に投宿し、浴終りて心神いと爽快に見えさせ給ひ、悠然として申されけるは、君子の心は常に斯の如くにこそ有らんと思ふなりと。
世界の革命運動の歴史では、破壊者が権力をにぎり、その権力をふるって建設を推し進め、そして独裁者になり果てるという、私心あふれる「英雄」は数知れぬ。
だが西郷は、破壊につづく建設を主導する政治家ではなかった。権力者にはならなかった。権勢を欲しがらなかった。
ここに西郷の政治思想の革命運動における限界がある。
その限界の故に明治10年の西南戦争の結末は、日本国民の心情において、西郷を悲劇の英雄とした。西郷は、建設者にあらざる「悲劇の永久革命家」として、日本人の心情を刺激する巨大なる不思議な「英雄」となったのである。
城山の下に立つ西郷銅像は、「武」を象徴するいかめしい軍人軍服姿で鹿児島市内を睥睨する。
それと対照的に、上野公園の西郷銅像は、「農」すがたの心中に「文」の至誠を宿し、その巨眼は「敬天愛人」の光を世の中に発しいているようにみえる。
栄達と栄華の反対側に位置する犬をつれた野良着姿の銅像は、「楼の上も はにふの小屋も 住む人の 心にこそは たかきいやしき」(日新公いろは歌)のメッセージを発しているようにも思える。