6.遺訓第4条万民の上に位する者が私を営む姿への西郷の涙 2018723

 

■遺訓第4

万民の上に位する者、己を慎み、品行を正しくし驕奢を戒め、節倹を勉め、職事に勤労して人民の標準となり、下民其の勤労を気の毒に思ふ様ならでは、政令は行はれ難し。

然るに早創の始めに立ちながら、家屋を飾り、衣服をかざり、美妾を抱へ、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられまじき也。

今となりては、戊辰の義戦もひとへに私を営みたる姿に成り行き、天下に対し戦死者に対して面目無きぞとて、頻りに涙を催されける。

 

□第4条の解釈

西郷は、武力倒幕の戊辰戦争を義戦(破邪)として明治維新の先頭にたった。

明治維新は、「上に位する者たち」が万民を統治する体制を、諸藩割拠する武家封建制から、一君万民君臣一体、「天皇―お上―下々」の国家体制に変えた。公家―士―農工商の自治分権的な世襲制を、君―臣―民の中央集権・君主制に革命した。

明治維新は、市民革命にあらず、下々の民、百姓、町民の地位には、変化はなかった。下々にとっての明治維新は、「お上」が江戸の将軍様から京都の天子様に交代することによる、親政―新政厚徳の世への希望のはずであった。

 

西郷の政治思想では、天界に住むという天帝が、天下の人間社会において、「天道を行い、大政を為す」ことを職務とする「万民の上に位する者」に対し、つぎの天意を命じる。(遺訓第1条の拡大解釈)

  心を公平にとり、私心をはさまず、正道を踏み、賢人を選挙し、国家の政治を任せること

  国政を司る公職者は、修己治人、滅私奉公、仁愛教化、知行合一の精神を修業すること

  公職者は、下々―民百姓、国民への奉仕者として、政令をおこない職事に勤労すること

  公職者は、経世済民、天下泰平を実現し、下々から信頼され尊敬されるべきこと

 

ところが現実の「お上―群卿百僚、政府・官僚・軍人・警官・司直」たちの中には、もっぱら私を営みたる姿に成ってしまっている者がいる。

一部の公家たちは大名生活をまね、下級士族たちは藩主生活をまね、下々が期待した新政厚徳にあらず、修己治人の修業にはげむことなく、滅私奉公とは逆の「利私忘公」のありさまである。

西郷自身も「お上」の一員である。

「お上」たちのこの私を営みたる姿は、戦死者や天下の民百姓、とくに失職し没落した困窮士族たち、そして厚恩をたまわった先君の斉彬公に対して、まことに面目無いこと、顔向けできないこと、情けないこと、恥ずかしいことだ、と西郷はくやし涙をながす。

 

◆論点4.1 西郷の涙 ~「怒り」をこえた「哀れ」の心情 

西郷を涙もろい多感多情の人物とつたえる逸話はおおい。大久保を頭の切れる冷酷鋭利な理知的官僚タイプとし、その対極にある西郷を義理人情ゆたかな熱血漢タイプとする伝説もあまたある。

生得の多感多情な若き西郷が号泣、悲憤慟哭したという逸話のひとつにお由羅騒動がある。

 

幕末の薩摩藩で、藩主交代をめぐって一連のお家騒動があった。近思録崩れにつづく、1850年のお由羅騒動(別名、高崎崩れ、近藤崩れ、嘉永朋党事件など)処分である。

ペリー提督の黒船来航に狼狽する江戸幕府において、島津斉彬は薩摩藩世子という立場のまま40歳となり、海外事情にも明るいという、その英明知見への評判が、老中阿部正弘をはじめとして幕閣の間にも高かった。

その斉彬の藩主襲封を願う家臣や若手藩士たちが、藩主斉興の側室・お由羅の子の久光を擁立する藩政旧守派によって、切腹と遠島や蟄居などの処分をうけた。斉彬擁立派へ徹底した弾圧がおこなわれたのである。

 

西郷の父・吉兵衛は、切腹を命じられた赤山靭負の御用人をしていた因縁で、赤山の介錯をつとめた。

西郷吉之助は、その切腹の様子を聞きながら形見の血衣を見せられた。久光一派の弾圧に憤慨し、血染めの肌着を抱きしめ、斉彬一派の志に思いをたくして、号泣したという。

この時、西郷は23歳、農民の困窮状態をつぶさに見分している下っ端の農政役人である。下級藩士の若き西郷が流した涙は、悲哀ではない。

それは、理不尽に「私を営みたる姿」の久光擁立一派の藩政への憤怒と悲憤慷慨の涙であった。

 

 

時代は動き、その後の西郷は、斉彬の薫陶をうけて動乱の時代を生き抜き、明治維新では40歳、当時の平均寿命では初老・翁の域にたっしていた。

西郷は、市井に生きる単なる初老のひとりではなく、万民の上に位する者のひとり、参議、陸軍大将という明治新政府の高位高官の地位にある。

 

明治3年7月、薩摩藩士の横山 安武(28歳)が、明治新政府の腐敗・悪政を批判して、時弊10箇条の書と建言書を集議院の門扉に挿し入れたのち、切腹するという諌死事件があった。

時弊10箇条は、政府高官の慢心、大局観なき朝令暮改の政策は、国家ではなく私欲のための愛憎好悪によって人事を決め、天皇と朝廷を利用して、自分と身辺の名声と利益ばかりを図り、民を苦しめ、人民は飢餓に瀕しているではないか、と断じた。

この事件は、西郷の心情をおおいに動かし、西郷は明治5年8月、碑文を作って安武を弔った。

 

遺訓第4条の西郷は、天下に対し戦死者に対して面目無きぞとて、涙をながす。

この涙は、若き西郷の憤怒と悲憤の延長ではなく、直訴の諌死にむかわせる情念をこえた涙である。

万民の上に位する者たちの私を営みたる姿を怒るというよりも、怒りをこえた涙である。面目無い(顔向けできない、情けない、責任が果たせなくて恥ずかしい)という至誠がいたらぬと自責する念の涙である。

喜怒哀楽の「怒り」ではなく、自分の無力感をともなう「哀れ」の涙は、どこから湧き出てくるのか。

西郷は、なぜ「怒り」ではなく「哀れ」の心境を吐露するのか。その涙は、何を浄化して、どこに昇華するのか。

 

◆論点4.2 大義名分論と廉恥心 ~私心をうつす鏡

 普通の人間からみれば、下々から這い上がって立身出世した成功者が、家屋を飾り、衣服をかざり、美妾を抱へ、蓄財を謀り、我が世の春をほこり、私を営みたる姿は、不思議なことではない。むしろ凡人とはちがって、ひとくせもふたくせもある英雄豪傑の偉人として、もてはやすこともおおい。

 

明治維新は、薩長土肥の下級藩士らが立身出世して、明治新政府の要人となり、我が世の春をもたらした。

築地梁山泊と呼ばれた大隈の私邸には、五代友厚、井上馨、山県有朋、大江卓らがあつまり、女をはべらせて豪勢な宴会を催しながら、天下国家の政談を論じた。山県有朋は山城屋、井上薫は尾去沢銅山の官吏汚職事件に関わったとされる。

 

天下国家の政治の任にあるもの(為政者、権力者、政治家、役人)が、私的な性癖の嗜好にふけることは、古今東西の歴史においていくらでもある。権力者にむらがり、へつらう、忖度する輩、佞臣、奸臣がいるのも世の常である。

 西郷は、家屋を飾り、衣服をかざり、美妾を抱へ、蓄財を謀るという世俗的な個人の欲望実現には関心がなく、質素な生活に満足する生来の気質をもつ。

 

その西郷がながす涙は、清貧をよしとする道徳家の顔をして、個人の欲望レベルの私を営みたる姿を怒るのでもなければ、哀れむものでもない。

その涙は、明治維新運動の大きな成否の実現に関わると解釈しなければならない。

 

明治維新に命をかけた西郷の実現目標は、薩摩藩主・島津斉彬のつぎの遺志である。

地球儀から日本列島を俯瞰するグローバル世界での日本国の独立

アジアの中韓が連帯して帝国主義列強に対抗する東亜外交

民の生活を豊かにし、文明を開き、武力強兵による中央集権国家の建設

 

西郷は、世界の中の日本、東洋の一員としての日本という視野から万民の上に位する者たちの私を営みたる姿を問題とする。

 その意識の根底には、お由良騒動処分に慟哭した若き時代から心の深奥にひそむ、つぎの自問がある。

 

下々の大多数をしめる農民のくらしは困窮している。

 それは、なぜなのか、農民は年貢をお上に納めるためだけに生きているのか。

お上が、農民から年貢を収奪する道義は何であるのか。どのような倫理に基づくのか。お上は、困窮する平民のくらしを救済できるのか。

 

この問題意識は、下々が生活する人民社会とその上に位する為政者の政治国家との関係性にむかう。

その意識は、さらに生命―{個人―家族―社会―国家―世界}―自然という天下の遠近空間に視野をひろげる。

そして明治政府がめざす「天皇―お上―下々」、「君―臣―民」の国家体制において、それぞれの地位の人間は、どのように「生きて死ぬか」という人間存在のあり方の根本、倫理観、道義心にむかう。

 

道義心は、「天地神明に誓って、自らの生き方が、自らを恥じないかどうか」を自問する私心をうつす鏡である。

 

道義心は、自分を対象化して自分を評価する理性、理知的判断と一体となる。それぞれの個人の良心、人格、倫理観、道義心が寄り集まって、家族、社会、国家の集団的道義心が形成され、集団活動の破邪顕正の規範となる。

 

西郷の道義心の基礎というか骨格は、神仏儒洋の次元にてらせば、孔子孟子の儒教である。「天下に対し戦死者に対して面目なし」と涙する源泉は、儒教の大義名分論である。

 

大義名分論は、「君―臣―民」の国家体制において、それぞれの地位の人間がどのように「生きて死ぬか」という人間存在のあり方を規定する。

大義名分の「名分」とは、君臣・父子・長幼・師弟・夫婦など、社会的地位の上下関係、つまり主従関係を定める名称と役割分担である。

大義名分の「大義」とは、名分にもとづく人の生き方が「天地神明に誓って、自らを恥じないかどうか」の善悪・正邪の価値判断基準である。

大義名分論とは、「君―臣―民」構造の主従関係において、臣下として尽くすべき役割、道義、節度、義務、出処進退などのあり方、身分、本分、職分、分際、分限などを指す思想である。

 

本分をはずれて身分にふさわしくない言動は、世間様とお天道様に恥ずかしいことである。

西郷は、とりわけ恥を知る心、廉恥心が強い人物であった。野心と功名心の私心にはやる「一将功成り、万骨枯る」をもっとも恥じる武将である。

西郷の身分は、「君―臣―民」構造において、君に忠誠をもって生死をいとわず奉仕する忠臣である。

 

西郷が、忠臣として情義一体でつくすべき「君」は、心中の亡霊、今はなき島津斉彬ひとりである。

西郷は、天皇の朝臣ではない。薩摩藩の実権をにぎる国父の久光には、情義の忠誠心をもたない。西郷にとって、現実の明治の世で忠誠をつくすべき「君」は、誰であるか、どこにいるか。

 

西郷がながす涙は、忠誠をつくすべき本分をはたせず、君なき臣が恥をさらしながら生きることへの悲哀の涙である。   

時代の転換期における西郷の涙は、明治政府がめざす「天皇―お上―下々」の国家体制において、それぞれの地位の人間存在のあり方への悲哀にいたる。

その悲哀は、地上の人間という生きものは、善から悪まで身心頭の欲望にまみれ、私を営みて生きるという「天に対する人間の私心」を恥じる意識にほかならない。

 

この人間存在に対する悲哀感情は、慈悲から慈愛に転回し、哀は愛に直結する。

わたしは、大義名分論にもとづく西郷の人並みはずれた廉恥心が、敬天愛人の思想に結実すると解釈する。

その思想は、地上に生きる人間のあり方への独特の人間観と死生観にもとづく。

その人間観は、下は最下層の農民との交流、中は下級藩士・勤皇志士・脱藩浪人などとの交際関係、上は藩主から天皇と公家との対応交際まで、広範多彩な人間関係の体験の結晶として形成された。

 

世界―東洋―日本という枠組みで、国家をこえた視野からみれば、ひとり個人レベルの私心だけでなく、自分たち仲間同志や一族郎党の欲得も集団私心である。国の中のひとつの地域で薩摩藩だ、長州藩だといって、お家大事の藩益追求も藩主の私心である。

さらに日本だ、アメリカだ、イギリスだ、ロシアだ、日本だという国益追及ですら、西郷思想からみれば私心となる。

この人間観、社会観が、敬天愛人の「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを尽て人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬ可し」(遺訓第25条)の道理を悟る諦念にいたる。

 

論点4.3 大道廃れて仁義あり

「大道廃れて、仁義有り」という老子の大道と西郷の遺訓第21条「道は天地自然の道なり」、遺訓第24条「道は天地自然の物」の道とどのような関係にあるか。

老子の思想は、自然と人為を対置する。江戸時代の「隠れた思想家」の安藤昌益が、自然世と法世を対置するのと同じである。

人の手を加えない、自ずから然り、あるがままの状態、万民の上に位する権力者など不要、無為自然にまかせる庶民の生活、そのような人間社会を理想とする。

老子は「無為自然の生き方が廃れてしまったからこそ、人為的な道徳が説かれるようになったのだ」として、仁義を強調する儒教・孔子を否定する。

 

西郷の思想は、儒教を基礎とするので、その限りでは老子と対立するようにみえる。

西郷は、「下々の大多数をしめる農民のくらしは困窮している。それは、なぜなのか」という自問を心中ふかく抱く。そして人間社会の理想を「無為自然の道にまかせながらも、人民が生活できる世の中、人民の上に位する権力者など不要」とするという意味では、西郷は老子の弟子だとわたしは解釈する。

 

西郷と老子の言論の相違は、現実の暮らしの社会的地位と関係する。

西郷は、参議、陸軍大将として、現実の政治に深く関与する。しかし老子は、政治には関心がなく、有閑階層の地主みたいな地位で暮らしたという説にわたしは賛成する。

西郷は、自然と人為を対置するのではなく、人為の上に自然をおく。自然は、人為を包摂する。人為は「天網恢恢疎にして漏らさず」の自然、天道の一部にすぎない。

 

西郷の政治思想は、社会と国家の関係性について、自然を社会に対応させ、人為を国家に対応させる。

この関係は、つぎのように図式化できる。

□自然社会状態 生命―{個人―家族―社会}―自然 

◇人為国家状態 生命―{個人―家族―(社会―国家―世界)}―自然 

 

遺訓第4条は、明治政府の状態を大道廃れた私を営みたる姿という。その反語として西郷の政治思想を集約する遺訓第1条の論点は、自然状態の社会の中に、仁義をとなえて人為状態の(国家―世界)の政治を位置づけるものである。

◇論点1.1 大政と国政の分離  ◇論点1.2 廟堂と政府の分離

◇論点1.3 天道と公道の区別  ◇論点1.4 権威と権力 ~破邪顕正

◇論点1.5 徳ある者に官職、功労ある者に褒賞 ~人材登用

 

遺訓第3条の解釈「大政―国政」と「文武農」の関係をつぎのように図式化した。

〇天下の世界政治 →文(大政) →武(破邪) →農(国政・人民の生活・顕正)

この図式は、いまや次のように変更されるべきであろう。

●天下の世界政治 →国家{破邪 文・武(大政・国政)} →社会{顕正 農(人民の生活)}

 

日本国家の形成は、「武を振う」豪族が大王から天皇に成る歴史である。その人為的国家形成は、「文を興す」ための文字・数字の書き言葉を必須とした。

徴税のための戸籍や土地の記録、徴税と交換のための規則と罰則の記述と通貨記号、役人の地位と仕事の法制度の規則条文、鎮護国家のための仏教の教義仏典など。

西郷の政治思想の根幹には、国家(お上、為政者)と社会(下々、生活者)の関係性というきわめて現代的なテーマがある。

 

2018年の日本の政治状況は、議会制民主主義が腐敗して溶解する兆しではないか。

 

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