8.遺訓第6条 人間教育・人材教育・リーダー教育 2018825

 

■遺訓第6

人材を採用するに、君子小人の弁酷に過ぐる時は却て害を引き起すもの也。其の故は、開闢以来世上一般十に七八は小人なれば、能く小人の情を察し、其の長所を取り之れを小職に用ゐ、其の材芸を尽さしむる也。東湖先生申されしは「小人程才芸有りて用便なれば、用ゐざればならぬもの也。去りとて長官に居ゑ重職を授くれば、必ず邦家を覆すものゆゑ、決して上には立てられぬものぞ」と也。

 

□第6条の解釈

明治政府は、「天皇―お上―下々」、「君―臣―民」の政治体制をめざす。

「人材」とは、「お上・臣」を意味する。遺訓第1条の「賢人」、第2条の「賢人百官」、第3条の「文武農とその他百般の事務を担う者」、第4条の「万民の上に位する者」、第16条の「上に立つ者」たちである。

その「お上・臣」を採用する基準として、君子/小人をきびしく弁別して、君子だけを重用しすぎ、小人を排除することは、害をひきおこすのでよくない。

「君子」とは、天皇を天子・君主とする「君の子」である。君子は、天皇を輔弼することを職務とし、学識・器量・人格ともに優れ、徳行をそなえた特別な人物である。

 

君子たる人間は、聖人を理想的人間像とする格別な人間であるゆえに世に少ない。

世の中の人間は、神代のむかしから、十に七八は小人であるのだから、君子だけでは、「政(まつりごと)の大体である文を興し、武を振い、農をはげます」(遺訓第3条)ことはできない。

政治には、廟堂や政府で職務する高位長官の重職から、現場で才芸を発揮する下っ端の小職まで、多彩な人材・能吏を必要とするのだ。

政治家・大臣・官僚・公務員たるものは、政治的手腕、行政的手腕に優れた実務能力のある能吏でなければならない。必ずしも「君子」というわけではない。

政治は、小人である大多数の下々・人民を相手にすることなのだから、政府の人材を採用するには、能く小人の情を察し、其の長所を取り之れを小職に用ゐ、其の材芸を尽さしむることに留意しなければならない。

されども、才芸に優れているからといって、小人を「長官に居ゑ重職を授くれば、必ず邦家を覆すものゆゑ、決して上には立てられぬものぞ。」と藤田東湖先生も申されている。

 

◆論点6. 君子小人の弁酷に過ぐることの弊害 ~君子の現実的な対応能力

君子と小人の対比は、論語や孟子にたくさん出てくる。

「人材を採用するに、君子小人の弁酷に過ぐる時は却て害を引き起すもの也」という「害」とは、何を意味するのだろうか。

 君子と小人は、徳の高低で区別される。高い人物が君子、低い人物が小人。

「小人程才芸有りて用便なり」に対比すれば、逆に「君子程才芸無くて不器用なり」ともいえるわけで、この第6条は「君子」を過大評価することへの揶揄・皮肉ともとれる。

 

君子は危うきに近寄らず、君子豹変す。→徳ある人は、行動力がないですね。

虎穴に入らずば、虎児を得ず。→勇気ある実行能力こそに価値あり。

孫子の兵法は、戦わずして勝つ。→知恵なき猪突猛進では人民の不幸。

このように解釈するならば、第6条は「論語読みの論語知らず」の儒者批判、幕末の動乱に対応できない訓詁学に形骸化した儒教・朱子学批判かもしれない。

あるいは、儒教・陽明学の実践といわれる戦略なき大塩平八郎の乱の軽率な行動への批判かもしれない。

 

6条のいう人材を、王政復古をかかげて古代の律令制をまねる明治政府、太政官の役人であると解釈すればどうなるか。

その頂点には、太政大臣、右大臣、左大臣の官職があり、有栖川熾仁親王、三条実美、岩倉具視らが名をつらねる。近衛家、九条家、二条家、一条家、鷹司家などが名門である。

「君子」とは、単に君主である「天皇の子」つまり「君の子」として、天皇家の家臣、朝廷に仕える公卿・大夫(たいふ)となる。

そうすれば、この君子は、血統書つきの高い門地、家柄、貴門に生まれた貴族でなければならない。

したがって「君子小人の弁酷」とは、政府の人材採用について、家柄の貴賤をきびしく区別して、名門のお公家さんを政府要人に採用すること、という解釈もできる。

その人材採用は、家格にしたがう世襲制である。世襲により採用された人材が、「学識・器量・人格ともに優れ、徳行をそなえた特別な人物」であるとは限らない。気位だけがたかくて無能な人物が、重職につくのは、国家にとって大いなる害である。

6条は、太政官制で天皇の側近にはべる公家批判、律令制王政への形式的復古を唱える五カ条の御誓文への皮肉かもしれない。

 

君子への皮肉と言えば、徒然草の97段にもある。

その物に付きて、その物をつひやし損ふ物、数を知らずあり。身に虱あり。家に鼠あり。国に賊あり。小人に財あり。君子に仁義あり。僧に法あり。」

愛国を主張する人間こそが、国家を利用して私腹を肥やす国賊になりやすい。小人が、身に余る財産をもてば身をほろぼす。

仁義を主張する君子は、自分の無力さ、影響力の無さに悩み、世の役にたたない。仏法にこだわる僧侶こそ、この世で生きる煩悩が増す。

 

老子に「聖を絶ち智を棄つれば、民の利は百倍す」とある。ものすごい皮肉である。

小人閑居して不善をなす」 というけれど、「大道廃れて仁義あり、君子広言して大悪をなす」にくらべれば、小人の不善など、たかがしれた小さな悪じゃないか。

「小人罪なし、玉をいだいて罪あり」もおなじ。

小人は、もともと小心翼々としてお互いさまどうしで生きる庶民のくせに、立身出世して財産を増やして高い地位につくからこそ、そこから罪がうまれるのだ。

君子は義にさとり、小人は利にさとる」、君子は義にこだわり、小人は利にこだわる。この義理と功利の対比は、第1条でいう「徳と官と相ひ配し、功と賞と相ひ対する」の根拠となる。

 

その趣旨は、明治維新の功労者に対する処遇についてである。

倒幕のたたかいで手柄をたてた功労者だからといって、「お上・臣」の職をになえる実務能力のない人物を重職に就けるな。実務能力がある功労者であっても、徳のない者には地位はあたえるな、カネをあたえて名誉心をくすぐって褒賞すればよい、と強調していることがポイントである。

 

西郷は、「君子を官職に就けるべし」と言っているわけではない。徳ある者とは君子に限るわけではなく、官職に就くのは君子に限るわけでもない。

遺訓第1条の「賢人」、第2条の「賢人百官」、第4条の「万民の上に位する者」、第16条の「上に立つ者」、つまりに現代の公務員に相当する職をになう者は、職務能力はもちろんのこと、私心をはさまぬ人徳・道義心も持たなければならない、ということ。

おおくの「小人」は褒賞すべき勲功はなくとも、それぞれの分に応じた才芸・能力を磨きながら、現実の社会生活を生きる。「君子」ほどの徳は高くなくとも、人として自然な義理人情の徳と道義心をもつ「「小人」もすくなくない。

世上一般の「小人」の生活能力と行動力は、「君子」よりもはるかに高いといわねばならない。職務を遂行する才芸をもち、そして勤勉実直な徳をもつ小人にも「徳と官と相ひ配」すべきなのだ。

 

6条の「君子小人の弁酷に過ぐることの弊害」とは、君子の現実的な対応能力を問題視するもので、遺訓最後の第41条のつぎの文言に対応すると理解すべきであろう。

身を修し己れを正して、君子の体を具ふるとも、処分の出来ぬ人ならば、木偶人も同然なり。

処分とは、想定外の事態に対応すること、現実の問題に急いで対処すること。

死地に入らず候では、死地の兵を救う事できぬ申すまじく候

 

◆論点6.2 開闢以来世上一般十に七八は小人なり ~統計分布

「十に七八」は、2・8の法則(パレート法則)、サシミ(343)分布、ニロクニ(262)分布という自然現象や社会現象の出現確率を説明する用語とおなじだろう。

パレートの法則とは、会社の利益の大部分は、社員の2割ほどの働き者がもたらす。その2割が退社したら、残り8割の中からまた働き者が自然に2割ほど出てくる。仕事の8割は、費やした時間の2割で成果がでる。故障の8割は、2割の部品に原因があるなど。

サシミ(343)とかニロクニ(262)は、統計学が教える大数の法則や正規分布を説明する用語である。統計分布とは、ひとつの集合を対象として、その要素の特定の属性の値を、優―良―可、大―中―小、長―並―短、温和―中庸―残虐、過多―中量―寡少、などに分類した数量・度数・割合の確率分布である。

 

君子と小人は、対語関係であるが、世上一般人が、小人と君子に二分されるわけではない。「開闢以来世上一般十に七八は小人なり」の残り三二が、君子というわけではなかろう。

人それぞれの人徳・人格・品性の高低を測定できるとすれば、すべての人間は、聖人君子←→極悪卑賎を両端とする線上のどこかに位置して、その分布は社会的常識人を中央値にした正規分布となるだろう。

世上の人は、「高潔・立派な人―常識人―下品・卑しい人」、「よい子―ふつうの子―わるい子」など、サシミ(343)とかニロクニ(262)の分布をすると理解するのが常識だろう。

世に人材と称される者は、人格・能力・器量・胆力・知識などを基準とする上位の3もしくは2に属する者である。

 

それらの者は、小人を意味する平均・普通・凡人・常識から遠く離れた格別で特殊な人物であり、統計学が教える標準偏差値の「3シグマ」に属する人種だと解釈できる。

「お上・臣」の中でも高位高官の重職に就く人材は、辛酸をなめて志を堅くした西郷のように「3シグマ」からも、はるかにはずれるほどの人物であるべきだろう。

西郷は、はじめて江戸に着いて水戸藩に出入りしたころ、「東湖先生には、いつも丈夫と呼ばれ、過分なことです」とうれしそうに手紙に書いている。

その「丈夫」(ますらお、立派な男子)の自画像を、遺訓第5条ですでに見た。参議・陸軍大将の重職につく西郷が、自分のことを儒教でいう「いわゆる君子である」と思っていないことは、第40条で「君子の心は常にかくの如くにこそあらんと思う」と冗談めかしていっていることでも分かる。

 

人材を採用するに、君子小人の弁酷に過ぐる」は、統計分布の多様性を無視する二分法思考への批判であり、つまり君子と小人を対置しすぎる儒教への批判でもある、とわたしは思う。

人間とその集団社会は、きわめて複雑な生きものなのだ。政治は、きれいごとを説くだけの君子の領域を超えている。

「上に立つ者」の人材採用というけれど、現実の政治は、人事をめぐる権力闘争でもある。権力は、普遍的な価値を権威、象徴にして、自己を正当化する。それは、私欲の野心である。

人民の生活を乱す悪人・邪道は、小人の中の悪人・悪党、極悪非道、無法者、治安を乱す者だけではない。

上に立つ者が権力と権益を維持するために、人民を抑圧し、私欲と自己保身の邪道を為す権力者は、古今東西それぞれの社会条件によりかならず出てくる。

「よい子」の道徳をとなえる性善説の儒教・徳治だけでは、この世には対処できない。

だから性悪説にもとづく荀子や管子、韓非子などの法家・法治が出てきて、さらに実用的な孫子の兵学も必要になるのだ。

西郷の「敬天愛人」を軸とする破邪顕正の政治思想は、儒教をベースとする単純な徳治主義ではなく、聖人君子の賢哲政治を理想とするものでもないのである。

 

◆論点6.3 西郷の政治思想の土壌 老荘―儒教―仏教―法家―兵学―国学―洋学

人材採用について、遺訓第1条に「官は其の人を選びて之れを授け」とある。

聖徳太子の一七条憲法の第7条には、「官の為に人を求め、人の為に官を求めず」とある。天皇制創出期の聖徳太子と王政復古期の西郷隆盛の思想が、かさなる。

天皇の臣下である群卿・群臣に向けて一七条憲法をつくった聖徳太子の政治思想は、仏教―儒教―老荘―法家の習合・混交だと学者は説明する。そこに兵学はない。

 

 西郷の「敬天愛人」思想は、老儒法兵の古代中国の学識・素養だけでなく、禅や月照の仏教、藤田東湖の水戸学と平野國臣の平田国学、さらに橋本佐内の洋学など、その交際によって培養されたものである。西郷は太子の仏教よりも兵学を重視する。

西郷は、聖書やナポレオンやワシントンの伝記、フランスとプロシャの普仏戦争の書を読み、薩英戦争の縁で関係を深めたイギリス公使などと接して西洋思想にも影響されている。

とりわけフランスとイギリスによるアジアの植民地化やアヘン戦争への危機感がつよい。

福沢諭吉は、西郷のことを「学識に乏しと雖も老練の術あり」といい、西南戦争を暴挙とみなして「西郷の罪は不学に在りと言わざるを得ず」という。

その西郷が、学問をめざす若者に西欧への留学をすすめ、福沢諭吉の「西洋事業」や「文明論の概略」を読むようにすすめ、息子の菊次郎をアメリカに留学させているのだ。

 

西郷が、城山で自刃するまで西南戦争中も携帯していた革文庫の中に、明治21年(1888年)に『西郷南洲手抄言志録』として世に出ることになる文書があった。

江戸時代の儒学者である佐藤一斎の『言志四録』全1133条から特に101条を選び、書きとめ、繰り返し読み返したものだ。

佐藤一斎は「少にして学べば、則ち壮にして為すこと有り。壮にして学べば、則ち老にいて衰えず。老いて学べば、則ち死して朽ちず。」言志晩録第60)という。これは、人間教育・人材教育・リーダー教育に関係する。

ちなみに携帯物の中には、橋本左内からの手紙もあったという。橋本佐内は、斉彬とおなじく、西郷に世界的な視野をもたらした恩人である。

 

西郷の政治思想の「敬天愛人」は、老荘―儒教―仏教―法家―兵学―国学―洋学という広範な土壌に根をはる茫洋とした大思想の巨木である。

学者が好む体系的で概念的に無矛盾の思想体系ではない。小人の理解をこえた言動や矛盾もはらんでいる。西郷の生得の資質や性癖もふくむだろう。

西郷は、道徳家ではなく、学者でもなく、文人官僚でもない。島津斉彬の遺志を実現することに命をかける「忠臣」武官、実直無私の実務家であった。

地球儀から日本列島を俯瞰するグローバル世界での日本国の独立

アジアの中韓が連帯して帝国主義列強に対抗する東亜外交

民の生活を豊かにし、文明を開き、武力強兵による中央集権国家の建設

そして、この遺志は実現できず、逆臣として城山の露に消えた。

 

西郷は、旧体制を破壊した倒幕の英雄であるが、新体制の明治国家の建築には参加しなかった。西郷は、明治維新の道半ばで政治から退場した。

明治国家の建設は、西郷の「敬天愛人」を実行する人間教育・人材教育ではなく、天皇崇拝の教育勅語に向かった。そして昭和維新により確立した軍人政治のもとで、軍国主義の大日本帝国は、世界大戦争・帝国主義戦争に突入して行ったのである。

その歴史は、島津斉彬の遺志であり、橋本佐内・勝海舟・中江兆民や一時期の福沢諭吉も支持した「アジアの中韓が連帯して帝国主義列強に対抗する東亜外交」とは、真逆であった。

自らがアジアの盟主として、大東亜に覇をとなえる帝国主義・軍事国家になったのであった。

その根本原因は、どこにあるか。

それは、明治維新がめざした中央集権の「天皇―お上―下々」の政治体制をささえる思想基盤の欠如、王政復古と文明開化を方針とする五カ条の御誓文の矛盾、思想的亀裂、展望なき混乱にあるとわたしは思う。

 

◆論点6.4 「敬天愛人」をベースとする重職に就く者の人間教育、リーダー教育

人間は、身体と心情と頭脳のはたらきによって生きる。生命力は、身心頭の生理的な欲望の衝動といってもよい。

その身心頭は、少年・学業期→壮年・職業期→老年・終業期の「人生毛作」それぞれの生活状況に応じて学び、成長し、熟成し、停滞し、人の人格と一体となる。

その人格と思想は、①生得の資質性格・DNA、②さまざまな個人的体験、③人間と社会と自然について蓄積された古今東西の人類の知恵と思想、この三次元の相互作用によって形成される。

 

西郷の政治思想は、幾多の辛酸をへて「敬天愛人」に結実した。

その思想を理解する手がかりのひとつに南洲翁遺訓がある。その内容は、四つのテーマに分類できる。

A:天道と政治 ~為政者(政治家と公務員)に要求する滅私奉公

1条、9条、21条、24条、25条、40条

B:政治の本体 ~文武農

  2条、3条、68条、9条、10条、13条、14条、15条

C:西欧列強の文明と野蛮 ~大義ある武力

11条、12条、16条、17条、18条、追加2

D:徳治仁政 ~為政者の修身克己

 4条、5条、7条、19条、22条、23条、26条、27条、28条、29条、30条、31条、32条、33条、34条、35条、36条、37条、38条、39条、41条、追加1

この遺訓は、現代においてこそ「重職に就く者の人間教育、リーダー教育」の教科書として活用・尊重すべきだ、とわたしは思う。

その理由は、どこにあるか。

 

2018年の現在、新聞とテレビは「上に位する」政治家、官僚、公益法人の理事長や学長、大企業の社長などまで、道義的にみっともない不祥事、ウソ、隠しごとをつぎからつぎへと連日報道する。日本に限らず世界の政治的リーダーの私心と私欲は、うんざりするほど見せられ、聞かされる。

それゆえに、これまで考察してきた「万民の上に位する者」である公務員に対して、西郷精神の「敬天愛人―修己治人」の教育が必須だと思うのである。

 

◆自然;天道・道義←<敬天・修己>←公務員;政治体制→<愛人・知人>➡人民;生活

 

官は其の人を選びて之れを授け」とは、「適材適所」の人事を意味する。

適材は、基本的な人間教育、②専門職の人材教育、③地位のリーダー教育によって養成される。

適所は、人材を配置する組織の位置である。

政治家・公務員を配置する組織は、社会と国家の関係を明確にする政治思想、国家の方針、国家の機能と構造の規定、政治体制にもとづく。

政治家・公務員を養成する教育は、その政治体制を前提としてなされなければならない。

 

西郷の政治思想と政治体制は、遺訓第1条の論点に集約される。

◇論点1.1 大政と国政の分離  ◇論点1.2 廟堂と政府の分離

◇論点1.3 天道と公道の区別  ◇論点1.4 権威と権力 ~破邪顕正

◇論点1.5 徳ある者に官職、功労ある者に褒賞 ~人材登用

2条は、「国体定制」に言及する。第3条は、「政の大体は、文を興し、武を振い、農を励ますの三つに在り」とする。「農」は、現代においては、「」:生活(文化と経済)、「下々の社会生活」を意味する。

西郷の政治思想を現代の視点に拡張すれば、つぎのように図式化できる。

 

世界{道義(大政)}→国家{破邪 文・武(国政)}→社会{顕正 生(文化・経済)}

 権威・君子・外交   権力・賢人・内治   ➡ 人権・国民・社会生活

 世界平和・国連憲章 ➡ 国家統治・憲法   ➡ 国民生活・社会常識

徳治>  ➡  <法治>      ➡ <自治

 G:グローバル世界 ←→ N:ナショナル国家 ←→ L:ローカル集団

 

グローバル社会の現代に生きるわたしは、この図式を「敬天愛人」に象徴される西郷の道義国家の構想とする。

道義を「人類社会の破邪顕正の判断指針」と定義する。

道義国家の根本は、「大政と国政の分離」にもとづく「徳治―法治―自治」のバランスである。

西郷の政治思想は、中央集権の「天皇―お上―下々」の政治体制に思想基盤を提供し、王政復古と文明開化の矛盾を乗りこえるものだとわたしは思う。

 

 しかしながら、この「大政と国政の分離」思想は、その時代の「時に従い勢いに因り」(遺訓第3条)夢物語に等しかった。

西郷亡き後の明治国家の建設において、大政と国政の分離」思想は、現実的ではなかったのだ。

逆に「天皇―お上―下々」の政治体制を、「一君万民、君民共治」の皇国思想のもとで大政と国政を不分離とした。一国主義、国粋主義、権力一元化、天皇制全体主義国家の建設を強力に推進したのであった。

 

わたしは、西郷の明治維新の挫折の原因、つまり明治6年の征韓論争において西郷が敗北した根本原因をつぎの三つに集約した。

米英仏露の帝国主義列強に対峙する経綸を強力に主張しなかった。

(島津斉彬、橋本佐内、勝海舟などが唱えた日韓清の三国攻守同盟による統一戦線構想→大東亜共栄圏の源流)

②敬天愛人=「忠孝仁愛教化の天地自然の道は政事の体本にして云々(遺訓第9条)」を唱道する思想家を養成しなかった。

(福沢諭吉、中江兆民、中村正直などの知識人の動員、組織化)

③国家の軍事力は、邪道を蹴散らかして正道を踏む「破邪正顕」の手段であることの道義思想を軍人に徹底的に教育しなかった。

(黒田清隆、西郷従道、川村純義、大山巌などへの敬天愛人思想の徹底訓導)

 西郷は、征韓論争において、もっともっと強力に遺訓第1条の政治理念を主張すべきであったとわたしは思う。

もっと主張していたら、その後の明治国家の歴史は、西郷精神の一部であったとしても、少しは東亜友好外交の道の選択もあったのではないか、と現代の視点から妄想するのである。

 

文明開化の明治維新から150年をへた2018年の現在、世界を席巻してきた洋学つまり西洋思想とヨーロッパ・アメリカの覇権が、中国の台頭によってぐらつきはじめている。

しかしながら日本は、新憲法の戦後体制においてアメリカ一辺倒の追随を続けている。

 

西洋思想にもとづく現代の知性は、社会生活の個人・自由主義、政治の国内・民主主義、経済の世界・資本主義を普遍的価値とする。権力者は、それを金科玉条の権威とする。

その知性は、科学技術の功利性に過度に偏重しすぎることを許容し、地球の生命を破壊できる核兵器を製造し、その軍事力を戦争の抑止力として許容する。

その功利的な知性は、どこか貧相すぎる、卑しすぎるのではなかろうか。このままでいいのだろうか。豊かな社会ではあるが、なんだか気持ちわるい。

西郷がめざす「徳治―法治―自治をバランスする政治思想」の構築に、人類の叡智をもっともっと結集すべきではないか。

 

「何程制度方法を論ずるとも、其の人に非ざれば行われ難し。人有りて後ち方法の行わるる物なれば、人は第一の宝のにして、己れ其の人に成るの心掛けが肝要なり。(遺訓第20条)

わたしは、国際政治学者、憲法学者、安全保障学者、政治学者、人権思想家たちに、「重職に就く者の人間教育、リーダー教育、公務員教育」の教科書づくりを期待する。

政治を語る学者や評論家やジャーナリストたちが、人間―社会―国家―世界―自然の関係を明確に説明してくれることを願う。

現代の社会学者や政治学者たちが、社会と国家の関係をどのように定義するか、わたしには理解できないからである。

 

 

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