5. 老人世代が安心立命にむかう敬老思想の再生  20141227

5.1 「借金1千兆円」問題に向き合う姿勢~私・共・公・天の視点

5.2 老人福祉政策の老人像と高齢者意識の変革

5.3 人生論を問いなおす ~「人生二毛作」から「「人生三毛作」へ

5.4 「少壮老/人生三毛作」の老人と老人意識の定義

5.5 老人世代の社会的責任を問いなおす~私と公の関係

5.6 安心立命の諦観老人への希望~去私脱公

5.7 老人の撹乱力

 

5.1 「借金1千兆円」問題に向き合う姿勢 ~私・共・公・天の視点

1)少壮老の世代それぞれの社会的問題に向き合う姿勢

人は、「いま、ここ」を起点として、身辺から周辺・世界にひろがる空間軸と過去・現在・未来にひろがる時間軸を生きる。そこで大小さまざま、遠近それぞれの社会的問題に直面する。社会的問題に向き合う姿勢は、まず少壮老の世代によっておおきく異なる。

少/学業期は、ほとんどが未成年である。基本的には社会的責任を免除される。

壮/職業期は、社会的問題に積極的に責任を負う。その中心は仕事である。

老/終業期は、さてどうなのか? 壮年期とおなじなのかどうか?

 

2)「借金1千兆円」への社会的責任感

老後の生活不安、孤独死、痴呆、要介護、延命治療そして社会保障費の増大。これらの社会的問題は、「自助」=自分の幸福をもとめる自己責任、「共助」=家族および地域コミュニティの相互扶助、「公助」=国民の生存権を保証する国家の福祉政策の重層関係で解決される。

わたしは、いろいろな社会的問題にいちいち関心があるわけではない。しかし「社会保障費が毎年1兆円の増加、累積借金が1千兆円」という社会的事実については、老後をすごす当事者として、人生観、倫理観、社会思想、国家論の視点からおおいに関心がある。

70歳以上の老人世代の全員が、高度経済成長の果実を甘受したわけでもないけれど、「借金1千兆円」のツケを次世代に残すということは、幸福な高度経済成長時代を生きてきた老人世代にもおおいに責任があるのではないか。

国家の福祉政策において、老人世代にむかって「世代間倫理」の問題意識を提起すべきではないか。自立できる元気老人が個人的な趣味三昧だけで過ごすのは、利己的で無責任なのではないか。

いっぽうでは、まじめに仕事を勤め、子供を育て、定年退職したが、死ぬまでの長い期間をすごす老後の生活に不安をおぼえる老人もふえた。それは、だれの責任なのか、なぜなのか。

あるいは医者が、死を迎える老人に延命医療をほどこすことは自然なことなのか。死を迎える老人が、患者として延命治療をうけつづけることは、自然なことなのか。家族や関係者たちが、死を迎える老人に「いつまでも生きつづけてほしい」と願うことは、自然なことなのか。

現実は、1千兆円のツケを次世代に残しながらも、70歳過ぎてなお延命医療介護を当然の権利、当たり前と考える。1千6兆円の金融資産があるのだから心配しなさんなという経済学者もいる。経済成長戦略で税収をふやすことこそが大事な国家政策なのだと政治家はいう。これらが現代日本人に主流の社会思想である。

豊かな老人が、「児孫のために美田を買う」ことを人生の成功目標とする社会思想である。西郷隆盛の「児孫のために美田を買わず」と真逆である。西郷隆盛の「敬天愛人」思想を信奉するわたしは、「老人世代にたいする世の中の常識、なんだかおかしいなあ、自然じゃないなあ」と感じる。「1千兆円の借金、ツケ」の問題は、老人であるわたしにとっては当事者である。だから国民としての社会的責任があると考える。

いつの世にもおおくの問題がある。特定の問題への関心や責任感や立場は、当事者、被害者、加害者、仲裁者、傍観者、評論家、学者など人それぞれである。それらは、問題領域と自分との距離関係において左右される。

ここでは人が社会的問題に向きあう一般的な姿勢を整理する。わたしは、大小さまざま、遠近それぞれの社会的問題の距離関係を、①自、②共、③公、④天の枠組みで考える。

 

3)社会的問題に向きあう一般的な姿勢

  私 問題を無視する 自分は自分、他人は他人 <私;自分> 自己責任、自助
世の中は、自由な個人どうしの相互関係システムである。その関係性の組み合わせの数と質は、天文学的数字というよりも無限と思える。何事がおこっても不思議でない。何でもアリ、複雑怪奇、小説より奇なり。自分はこの無限の宇宙にただよう一粒にすぎない。大海原の波に翻弄される一滴の水玉でしかない。
だから、世の中の出来事にあれこれいちいち気にしても仕方ない。自分がどうこうできるわけじゃないのだから。自分は、世の中を観察・解釈しながら自分の居場所で自分の器の分際でもって自由気ままに生きて死ぬしかない。主権在民の民主主義とはいっても選挙で投票するだけ。その先は政治家と役人にお任せ。
「1千兆円の借金」といっても問題がおおきすぎる。老後の過ごし方を考えるのは、人それぞれ個人的な問題である。すべからく自己責任なのだ。個人主義。

  共 問題をしぼる 家庭、隣人、コミュニティ <共;自分たち> 相互依存、共助
「世の中のおかしなこと」が気にはなる。しかしぶつぶつとつぶやくしかない。自分の家族、近所付き合い、会社の同僚や仲間など身近な人間関係だけを大事する。むかしの部族社会や共同体のように顔のみえるせまい人間関係を生きる。
身の丈をこえる大きな社会問題については、その解決への参加意識として、少しばかりの寄付やボランティアや同情などの協力や応援をするかもしれない。世の中には、おおきな問題にとりくむ政治家たちがいて、そういう人たちが頑張ってくれている。だからおかしな事もいずれ解決されるだろうと期待する。
自分にとって、世の中のことはおおきすぎる。だから自分はあまり深く考えない。衣食住を整える日々のくらしの雑事と仕事をこなしていくだけである。老後の過ごし方を考えるのは、自分と家族の問題にしぼる。
「1千兆円の借金」問題には、社会保障制度を補完する「共助」に参加したい。しかし具体的にどのようにすればよいか分からない。家族主義、共同体、コミュニティ思想。

  公 問題に向きあう、主張する  国民、みんな、国家  <公;国民> 制度、公助
民主主義の世の中は、人民・市民・国民が主権者である。立法者は、国民である。課税の仕組みも税金を使う予算配分も、国民が決める権利と義務をもつ。代議制民主主義の社会システムにおいて、政治家を選挙でえらぶ。政治家がものごとを議会で決める。行政が予算と法律を執行する。国民は、その執行の利害得失をうける。
みんが知恵と汗をだせば、世の中を変えることができる。「おかしな世の中」を我慢して生きるよりも、勇気をもって「社会を変えよう」。思想を共有する仲間・同志と連帯して、「みんなが幸福になる社会」をめざす。そういう人間関係を生きることこそが、人間たるものの幸福である。システムに沿って生きるだけでなく、システムを設計し構築し普及させることに参画する。自分も変わる。社会も変えられる。「在る為す」だけでなく「為す成る」の実践。
「1千兆円の借金」問題は、個人の問題というよりも、社会システム・国家政策の問題である。社会主義、国家主義、民主主義。

  天 問題をあきらめる  諦観 人類、自然、超越  <天;お天道様> 天命
無視もせず逃げもせず世の中を受け入れる。仕方がない。不条理な世の中と一体となる感覚。この宇宙に包摂される観想。老荘的な心境、悟り。万物流転。無常の川の流れに身をまかす。自己滅却。隨縁素位、足るを知り、分に従う。衣服をぬぎ、
露天風呂に入って空を見上げ、青空にただよう白雲をながめながら何も考えず、内外一体となった夢想無念の脱俗感。
「1千兆円の借金」問題の基本は、老/終業期の死生観、人生観、社会思想であると考える。
個人主義的な自由意志や欲望や権利意識および社会システム・国家政策を考えるまえに、人生論を基本にする。
その基本は、還暦過ぎた年寄りが「自分は老人である」と自覚することである。自らを「死に向かう存在である」と自覚する老人意識である。少壮老/人生三毛作=超高齢化社会における「成老思想」=老人思想=「天」への帰依=希望的楽観=自然にゆだねる諦観=隠居主義=達観である。則天去私・敬天愛人への修業である。

4)私 「自分」だけの個人思想 ;夕方5時になったら飲んでいいのか?  

201x9月x日、日曜日、午後4時半、テレビで後楽園ドームの巨人・横浜のプロ野球を中継している。妻は先ほど外出した。

横浜が勝ったら、気分がよくなる。そいう結果になる試合を見る快感への達成欲望がある

横浜が負けたら、気分がわるくなる。そいう結果になる試合は見たくない逃避欲望がある

③ いま、スイッチを消した。そしてこのメモを書きながら焼酎の水割りを飲みだした。

 テレビを見るか、見ないかは、自分の本心に合致した明鏡止水の判断である。その判断にくもりはない。だが、まだ5時前なのに、焼酎を飲みだしたことに我が心象に少しの「疼き」がある。5時前から飲み始めるのは、アル中の前兆かもしれない。意志薄弱ではないのか。妻がいたら、その目線を気にして、焼酎を取り出すのは控えたかもしれない。

だけども、今日は、日曜日なのだから、独酌しながら妄言・駄文を弄するのも欲望のひとつでいいじゃないか。だれにも迷惑をかけておらんのだから。

そう弁解するのは、閑居して不全をなす、小人者の欲望の釈明じゃないか、という声も聞こえる。十数年前に死んだあの世の親父からしたら、自分に似た息子のアル中の前兆を嘆くかもしれないなあ。

こんな反省をしたところで、良心などがささやく心象の「疼き」といっても、だらしない自分への嫌悪、自己否定だけである。これは、我が身心頭の欲望のバランスの問題であり、自分の内部に閉じた、社会から遮断された個人としての「個人思想」の問題である。ここには、社会的責任とか義務という倫理性はでてこない。どうでもいい。(そこでもう一杯、ぐいっ)。

 「1千兆円の借金」問題には、自分は延命治療や介護をうけない覚悟をすればよいだけ。隠居して則天去私・敬天愛人への修業と達観を老後の楽しみとする。

 

5)共 「自分たち」という共生思想 ;こんな隣人関係でいいのか

201x年x月、マンション団地に隣接して、民間企業が経営する老人ホーム建設計画に関する住民説明会が開催された。住民の一部に、日照権だのベランダから覗かれるプライバシーの侵害だの建設工事の騒音などの被害者意識がたかまった。団地管理組合を中心とした「住民運動」が起きそうな気配である。

ここに移り住んでx年が経過した。退職した年金老人として地域で日常をくらすことになった。生活空間や施設を共有して生きていかざるをえない隣人関係や人間関係の現実に直面した。団地には、自治会と管理組合という組織がある。「自分たち」で共有空間と共有施設を共働して、管理運営していく責任がある。その運営は、あきらかに会社経営とちがう。

ここでの隣人関係を、地域共同体、地域コミュニティ、地域民主主義、相互扶助、自治活動などを意味する「空間政治学」とでもいうべき視点からながめれば、「何だかおかしいなあ」という観想は多々ある。

「共有」すること、「共働」することに、「自分たち」という集団能力がほとんど訓練されていないことを強烈に感じるのである。老後を地域ですごすわたしには、身辺・周辺への社会的責任という問題意識の訓練がない。「共生思想」の欠如である。

だからこそ、わたしは老後を地域ですごす老人世代の社会的役割を「共生思想」のなかに位置づけたい。「1千兆円の借金」問題解決のひとつとして国家の社会保障制度を補完する「共助」の仕組みを考えたい。「共助」の思想と実践を「共生思想」として整理したい。かっての共同体がもっていた「結・講・座」の知恵を高齢化社会に再生適応して、「近助・互助・共助」の仕組みを「コミュニティビジネス」として構想できないか。

 

6)公 民主主義と社会的責任  ;生存権と社会的責任の倫理性

永井荷風は、明治44年、19111月、大逆事件の判決と処刑の日の日記につぎのように記した。(孫引きです)

{わたしはこれまで見聞した世上の事件のうちで、この折ほど云うに云われないいやな心持のしたことはなかった。フランスの小説家ゾラは、ドレフェー事件について正義を叫び、結果として国外に亡命。文学者たるもの、思想問題に黙してはならぬ。だがわたしは世の文学者とともに何も言わなかった。わたしは何となく良心の苦痛に堪えられぬような気がした。文学者であることに甚だしい羞恥を感じた。だから「自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度」まで引き下げるしかないと思案した。}

 この日記の「いやな心持」、「良心」、「羞恥」という文字に、わたしは荷風の「倫理性」を感じる。「自分」と家族をこえた身辺、周辺、社会、国家、国民=「みんな」との距離感である。文学者や小説家は、自分と他者との距離感によこたわる善悪さまざまな葛藤を描写する。多くの読者が、それを読み、それぞれに「自分」と「国民」との距離感をはかる。

自分は、「国民」の一員だから、「国民」に共鳴して共感し、「国民」としての社会的責任感をもつべきなのだろう。その社会的責任感が、倫理感につながる。だが、・・・・・・・・・。

大逆事件や思想犯などは、すでに過去のはなしである。社会的責任感などの倫理性は、法治国家の民主主義に回収された。今やすべての個人に自由が保証され、人権尊重が不可侵の精神領域になった。

江戸時代までの「学問」は、国家を統治する支配者の倫理・政治・哲学を一体として論じた。だが現代の民主主義国家のその言説は、政治と倫理と哲学というそれぞれの学問領域に解体された。知性が別々の専門分野に分断されたのである。

そして、社会的問題の解決は、もっぱら「民主的な法律」にもとづく国家政策に求められることになった。倫理性は、法律として文字化される以外には社会的活力を持ち得ない事態になった。なぜなら、思想、信条、信仰は、個人の自由であり、国家が個人の精神性に踏み込むことは、厳禁だからである。

それゆえに「1千兆円の借金、ツケ」を次世代におしつけてまでも「長命を生きる」ことの問題は、倫理や人生観や価値観の問題ではなくなった。国家による国民の生存権の保証という社会保障制度の問題つまり政治家たちとその周辺の既得権者たちの問題になった。社会的責任とは、国家の国民に対する責任であって、個人が社会的問題にむきあう姿勢ではないのである。

わたしはこの現実を「私・公二階建社会」とよぶ。私;個人主義と公;国家主義のニ元国家論である。自己責任か/それとも国家責任かの二者択一である。強者は自己責任主義。弱者は国家責任主義。

そしてこの責任思想にもとづく社会保障制度は破綻しつつある。あらたな社会保障制度にむけて、あらたな思想が必要である。

そこで「私・共・公」の三階建社会を未来の国家像として構想する。人生論は、少壮/人生三毛作の往還思想である。その社会論は、「共生思想」である。

 

天 社会現象、自然現象 ;人類レベルの倫理性  天 神々 天識 ・・・・ 

 2012122日、中央高速道路の笹子トンネルで崩落事故が発生し死者がでた。列島改造論の時代に高度経済成長政策にもとづき、川に橋をかけ、山にトンネルをほり、全国にコンクリート道路をはりめぐらした。

人工構造物はかならず経年劣化する。エントロピー増大の法則である。このトンネル崩落事故は、そういう社会基盤構造物が、いっせいに老朽化をむかえる時代になったことを強く印象づける。高度成長期世代がこしらえた人工物の負の遺産といえる。

このトンネル事故でわたしや家族や関係者が被害にあったわけではない。だから、その事故にたいする社会的責任というものは感じない。しかし、わたしや家族がそのような事故に遭う可能性はいくらでもある。自分が被害者になったとしたら、そういう事故にどのようにむきあうか。つぎの三つの姿勢がありうる。

ⅰ.道路管理者の責任を追及する ・・・・・「公」にむかう

ⅱ.自分にふりかかった偶然の不幸を悲しむ  ・・・・・「私」にむかう

ⅲ.人為をこえた自然現象だから仕方ないとあきらめる ・・・・・「天」にむかう

このトンネル崩落現象を社会的責任の視点から考えるポイントは、地球の自然現象と保守点検作業という社会現象との関係である。端的にいえば、事故は自然=天災なのか、それとも管理不良=人災なのかの問題である。天災ならば、その解決は、あきらめ=諦観である。事故を受け入れるしかない。

ところが現実の社会常識は、事故・被害を天災よりも人災とみなす傾向がつよい。事故の責任を「公」である行政の保守点検作業の瑕疵にもとめる。行政不服審査を要求し、裁判に訴える。そして損害賠償を請求する。被告は、公=国家である。社会的責任は、法治国家における「私」と「公」の関係に回収される。社会的責任主体は、公:国家に帰するというのが現代の常識である。被害者である国民は、人権が尊重される「つよい人間」である。

 

この「つよい人間」像は、人間の理性は自然を制御できるという科学技術信仰とかさなる。科学的な合理性思考は、「天」をおそれぬ「ゴーマンな人間中心主義」にいたる。その地点は、人類レベルの倫理性の不在=天への畏敬・畏怖の欠如といえる。

この「つよい人間」像は、少―壮―老という人生における壮年期を中心とする人間論でもある。だから、「老人」ということばをきらう。シニアとかシルバーとかでごまかす。いつまでも壮年期の延長をピンピンして生きる元気な高齢者をほめそやす。「老」不在の「少壮/人生二毛作」思想である。老/終業期を生きる「老人思想」がない。これまでの「敬老思想」の形骸化である。

 この「つよい人間」像は、どこまでも「成長」をねがう。「1千兆円の借金」問題も経済成長戦略の税収増で対応しようとする。2014年12月14日の衆議院選挙で、政府与党は「この道しかない」というスローガンで圧勝した。野党は、「成長」にかわる「成熟社会」の経済政策と「1千兆円の借金」への対応策を国民に提示できなかった。

 

8)これまでの社会思想・常識を問いなおす必要性

「社会保障費が毎年1兆円の増加、累積借金が1千兆円」という社会的問題は、私;人生観、共;社会思想、公;国家論、天;自然観/生命観にかかわる。だから単純に解決策をもとめることはできない。その問題の根っ子には、歴史的につみ重ねられてきた社会思想・常識があるからである。

私; 自由、人権尊重、個人主義 ・・・・・・・・・・・人生観   

共; 核家族、共同体の崩壊、職場中心・・・・・社会思想

公; 民主主義、資本主義経済体制・・・・・・・・・・・国家論 

天; 自然科学技術思想・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・生命観

これらの社会思想・常識のメカニズムが、いまの少子高齢化社会をもたらす因果である。この少子高齢化現象に、これまでの社会思想・常識で解決しようとした結果が、「社会保障費が毎年1兆円の増加、累積借金が1千兆円」である。だから、これまでの社会思想・常識そのものを根本的に問いなおさなければならないとわたしは考える。

 

たとえば、横浜市が70歳以上の老人に発行する「敬老特別乗車証」制度がある。わたしも利用している。非常に便利でお得な公共サービスである。老人世代にとってはありがたい制度である。だがもっと工夫があってもよいと感じる。

資本主義的な「ゼニカネ・マネー・日本銀行券」ではない制度による社会保障=共助の仕組みの可能性である。

「敬老特別乗車証」を拡大して、老/終業期世代の「外出利用券」、「お出かけクーポン券」を設計する。少/学業期世代むけに「子育て券」、「学習塾バウチャー」などを設計する。老/終業期世代むけの制度と少/学業期世代むけの制度を連動、循環させる。それを「使途限定の横浜市通貨」制度として統合する。

その制度運用において、成熟社会に一定程度の仕事を創出する。マネーに代わって世代間交流を媒介する「使途限定の横浜市通貨」メディアをそだてる。「使途限定の横浜市通貨」が循環するコミュニティビジネスである。

資本主義的成長戦略を補完する「公共事業」の成熟経済戦略である。それをささえる「共生思想」の社会常識化である。グローバル世界における「私共公三階建」社会の国家論である。

 

もちろん、これまでの社会思想・常識にもとづく制度とは、おおいにバッティングするであろう。なによりも各種レベルの既得権益者とのさまざまな軋轢を生じるであろう。簡単に実現できるわけがないだろう。

利害、損得、常識、習慣、惰性、直感、考え方、思想、哲学のレベルの見直しに関係するからである。明治維新および戦後憲法発布を区切りとして150年間に蓄積された日本近代思想の総括と展望に関係する。

「社会保障費が毎年1兆円の増加、累積借金が1千兆円」問題は、そういうおおきな歴史的な転換時期のひとつの現象なのだと考えたい。

 

2013年度に内閣府は「高齢化社会対策の基本的在り方等に関する検討会」を設置した。社会保障制度にかんする専門家や学者たちを委員として報告書を作成した。その内容のおおくに賛同する。全部ではないとしてもその一部は今後の政策、予算措置、制度設計にいかされていくだろうと思う。

だが管見するかぎりでは、「これまでの社会思想・常識そのもの」が根本的な問いなおされているとは感じられなかった。「65歳以上の高齢者を<要支援老人>としてきたこれまでの認識を変えましょう」というレベルの意識改革の提起である。

だがそれは仕方ない。あくまでも内閣府という現実的な役所の仕事であるからである。「おおきな歴史的な転換」は根本的な思想革命と表裏一体である。だから、憲法改正まで視野にいれることも必要となる。

だが現状の秩序維持に責任をもつ行政府が、憲法改正を前提にした制度設計ができるわけがない。だから、「高齢化社会対策の基本的在り方等に関する検討会」の報告は、現実的な内容にならざるをえないだろう。

では、横浜市の「敬老特別乗車証」制度を「使途限定の横浜市通貨」制度に拡大する上記の妄想イメージをだれに相談すればよいか。市会議員や県会議員や国会議員なのか。

いきなり議員さんに相談に行っても無駄だろう。

 

だから自分の妄想として考えつづけるしかない。できれば「社会保障費が毎年1兆円の増加、累積借金が1千兆円」について、まずは同輩の老人世代どうしが語りあう場があればよいなとおもう。

さらに願望をいえば少/学業期世代と老/終業期世代の世代間交流の場があればよいなとおもう。それから議員さんに相談に行くのが現実的だろう。

老人世代にはたっぷりと時間がある。さまざまな壮/職業期をすごしてきた経験や知恵がある。この老人世代こそが、これまでの社会思想・常識を根底から問いなおし、「借金1千兆円」の社会的責任を主体的に考えることができるのではないか。

次回は、老人福祉政策の老人像と高齢者意識の変革を提起する内閣府の「高齢化社会対策の基本的在り方等に関する検討会」報告書についてコメントする。

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