4.6 倫理と「自然や崇高なもの」との関係 ~宗教感覚     2014年11月29日

 

●自然や崇高なもの ~宗教感覚

 辞書では、倫理=道徳である。道徳は、「自己の行為または品性を、良心ないし社会的規範をもって律し、善徳と正義をなし、悪および不正をなさぬこと」とある。

小中校の道徳教育は、日常生活における「善なる」言動、振る舞い、努力目標などの指導に重点がある。子供たちに「いじめはやめましょう、人の命を大事にしましょう」という徳目を実践的に指導することになっている。高校の倫理教育は、実践的というよりも知識習得と思想形成に重点がある。「いじめはやめましょう、人の命を大事にしましょう」というその根拠に関する古今東西の思想家、哲学者たちの名前を教える。

4.2で公立少中学校の道徳教育が、「私―共―公―天」の枠組みで構成されていることをみた。前回4.5は、公立少中学校の道徳教育で、「自然や崇高なものとの関係がどのように教えられているか」への関心でおわった。「D;天―自然や崇高なものとの関係」の徳目とは、つぎの行動と信念である。

動植物愛護。自然環境保全。自他の生命尊重。自然への感動。崇高なものへの感動。敬虔な心。畏敬の念。」

「自然や崇高なもの」とは、人智がおよばないもの、人治や法治をこえたもの、天災や天恵や天罰を人間にくだすもの、最高の地位から人間世界を支配するもの、人間の行いを究極的に評価し審判をくだすもの、神や仏や天帝などと称されるもの、と理解する。宗教は、その「自然や崇高なもの」についての特定の物語である。

今回は、4章の終わりとして倫理と宗教感覚について考え方を整理する。宗教ではなく「宗教感覚」という理由は、自分の知識では「宗教の深い教義に入り込めない」からである。

 

●宗教 ~理不尽なことへの対応

宗教感覚は、世の中の理不尽なことへの対応と関係がありそうだ。理不尽とは、物事の筋道が通じないこと。道理にあわない解釈、仕打ち、要求、強制など。理不尽とは、なんらかの苦痛や災難など受け入れがたい言動、出来事である。人災、天災、偶然、おもしろくないこと、よろこんで歓迎できない事態。自分が欲しない理不尽な状況に投げ込まれたら、人に怒りや悲しみ、哀れや惨めな感情がわきおこる。

自然災害に遭っても、被害の大小には差がある。災害の責任が行政にむかうばあいもおおい。北朝鮮に拉致された被害者にも帰国できた人がいる。帰国できない拉致被害者の親族や関係者にとって、拉致問題が解決されないことは、きわめて理不尽な事態であろう。国家財政の1千兆円の借金、原発事故の後始末、国境紛争―戦争殺戮、延命医療介護などなど「理不尽だー!」と叫びたいことは多々ある。

理不尽への感情は、「他人との比較」がおおきな要素をしめるようだ。「赤信号みんなで渡ればこわくない」けれど、自分だけが道路交通法違反で警察にしょっぴかれたら、それは理不尽だという。不公平だ、公平の道理に反すると主張したくなる。

 この世に生きている限り、台風、洪水、土砂くずれ、地震、津波、竜巻、豪雪、火山噴火、酷暑、厳寒、雷などの自然災害にであうことは、特別なできごとではない。それらは人類の誕生以前からつづく悠久たる自然の営みである。自然は、人間にとって天恵とどうじに天災でもある。

この世に生きている限り、自分のまわりに他人がいて、社会があり、国家があり、警察がいて、裁判があり、刑務所があり、軍隊があり、そしてさまざまな事故や紛争や犯罪や冤罪や死刑執行がおこなわれる。そこに種々雑多な「人災」が発生する。

植物、動物、人間などの生き物は、人災と天災の網の目をくぐりぬけ、生き延び、死に至る。人は、自分の死こそが最大にして最終の「災い」であると考える。その「災い」には、「自然な死に方」と「理不尽な死に方」がある。

自分ではどうすることもできない自然現象や社会現象にであったとき、それにどう対応するか、どう受けとめるか、その心構えのひとつが宗教感覚だろうなとおもう。

 

●宗教 ~法律が判断できない倫理的判断   

政治、行政、学問、経済などの社会活動は、限定された領域の目的と手段の連鎖に支えられる。目的と手段の選択にあたって、損得、勝敗、論理、合理、功利、合法、常識、良識などを判断基準とする。その判断が、倫理的にみて「いかがなものか」と指摘されるばあいもある。

人は、特殊な状況においこまれたら、詐欺、窃盗、横領、殺人などを意識的に犯す可能性をもつ。犯罪行為については、法律論だけでなく、倫理的な情状酌量の判断がなされるばあいもある。 倫理的判断は、何らかの特殊な状態にでくわしたばあいの「道徳への反省」となる。

その倫理的判断の根拠は、科学的合理性の思考で実証的に基礎づけることができない。倫理的判断は、信仰、思想、信条、価値観を選択する自由意志=主観にほかならないからである。

民主主義国家は、法治主義である。法律は倫理的な判断を強制できない。法律は、適法/不法の区別しか判断しない。法律は、人の行為が倫理的か不道徳的かを判断できない。国家は、国民の内面の信仰、思想、信条、価値観を強制することはできない。民主主義国家の運営は、政治と宗教を一体化してはいけない政教分離である。

たとえば小中学生は、「なぜ人を殺してはいけないのですか」、「なぜ戦争をするのですか」というような質問を発する。わたしは、「なぜ延命治療をしてまでも70歳すぎた老人を長生きせるのか」という問いを発する。

この「なぜ」質問に合理性や因果関係で回答できるとはおもえない。科学的な根拠を提示できるとはおもえない。その「なぜ」質問への回答には、歴史をかさねた共同体におけるなんらかの物語、伝承、掟を根拠にするしかないだろう。その物語、伝承、掟は、社会的に形成された集団的な主観性であろう。

社会生活において人は、自他の行為について、善/悪、尊敬/軽蔑の「なぜ」を反省する。どのような行為を反省するか、反省しないか、人それぞれである。その彼我のちがいは、「他人の目を意識する」共同体への帰属意識に依存するだろう。共同体への帰属意識が強い人は、集団の掟を気にするだろう。共同体への帰属意識が弱い人は、集団の掟をあまり気にしないだろう。この共同体への帰属意識をもっとも強く求める集団原理が、宗教であるとおもう。

 

●宗教 ~安心、心の安定

人は、なぜ悪を為すのか、なぜ邪を為すのか、なぜ理不尽なことが社会で起きるのか。宗教は、この問いかけにむきあい解釈する。宗教は、常識や法律をこえて「なぜ」の根拠を人に提供する。人は、「なぜ」の根拠を説明する物語を信じることによって安心する。安心とは、心の安定である。自分にはどうにもできない自然や社会の出来事について、いらいら、反発、憎悪、抵抗、変革をあきらめて、その状況を受け入れようとする。現実の理不尽を受け入れる自分を肯定する。そうして安心をえる。このような心構え、一種の諦観、他力の受容が、宗教感覚なのだとおもう。

 

●宗教 ~現世のうえに君臨する

宗教がものがたる世界は、具体的な人間関係のこの世にはかぎらない。この世の時間と空間をこえた彼岸にもむかう。それぞれの宗教は、人と超越者=神仏の関係を説明する。

その説明は、科学的な合理性をこえる。観測可能な現実の因果関係の説明をとびこえる。その説明根拠は、「神」の啓示をうけた教祖の言葉や修業や奇跡である。教祖の物語への信仰心が、宗教感覚を育てる。

宗教心の強い人は、自信をもって世の中の出来事を判断できる。自らの判断を正義や善悪や真理にかさねる。その自らの信仰を他者にたいしても布教しようとする。オウム真理教という信者集団があった。その信者の幹部には、物理や化学など自然科学の高度な専門家たちもいた。かれらは、自らの科学的知見のうえに非科学的な教義を信じた。教祖に帰依した彼らは、自らの信仰に殉じて殺人までおこなった。信仰は、法律をこえ、国家をこえ、犯罪意識をこえる。自らの信仰集団を現世のうえに君臨させる。

 

●宗教 ~現世のご利益を祈願する功利主義 

「宗教」は、文明社会の唯物論的な科学技術思想において、主観的な「迷信」、「迷妄」と同義語とみなされる。だから宗教は「善悪・正邪」の倫理の客観的な判断基準にはならない。そして天:自然や崇高なものとの関係性の体験は、都市生活環境では極端に失われている。また民主主義国家は、政教分離である。公立小中学校では、特定の宗教を教えてはいけない。

ところが、日本人は信者や信徒でなくとも、四季おりおりの節句をむかえて「宗教」にかかわる習俗をいとなむ。

正月初詣、春分・秋分のお墓まいり、お盆、クリスマス、除夜の鐘。お通夜、お葬式、告別式。初宮参り、七五三、厄払い、地鎮祭、新築祝い、秋祭り、xx祈願、yy祈願、zz祈願など。

霊気ただよう清浄な神社仏閣の庭で、頭をたれ、手をあわせ、祈り、祝詞をたまわる。穢れを禊ぎ、水に流す。生活習慣として折々に神仏に参拝し、必勝祈願、開運招福、一家安全、商売繁盛、無病息災、五穀豊穣、国家安泰、世界平和を祈る。

特別な思いを持つひとは、あえて靖国神社に参拝する。わたしも特定の宗教の「教義」を信じるわけではないが、神仏に祈る。科学技術思考とその文明にどっぷりとつかりながらも、ここに現代人のおもしろさ、おかしさがある。非科学的な「祈り」をまじめにおこなうのである。

現代人の宗教感覚は、この世で習俗化し、現世のご利益を祈願する功利主義に加担する。  

 

●宗教感覚の普遍性 ~民族宗教、世界宗教

信仰、非科学的信心、宗教感覚は古今東西、人類の歴史いたるところに普遍的に存在する。それはつぎのようなものである。

アニミズム
自然現象すべてのものの奥に「魂」が宿っていると考える集団信仰

シャーマニズム
特定の人物が呪術能力をもって、生前および死後の超自然的世界と往復できる言動を信ずる集団信仰

トーテミズム
部族や血縁など特定の集団や人物に、野生の動物や植物などを「象徴」的に結び付ける集団信仰

ユダヤ教、バラモン教、神道などの民族宗教の生活習慣と掟

キリスト教、イスラム教、仏教などの世界宗教の生活習慣と掟

 

●日本人の宗教感覚  ~重層信仰の形成

日本人にかぎらずこれまでの人類には、合理的に理解できない出来事や存在物に、積極的に意味と価値をみとめようとする能力というか欲望が潜在的にそなわっていることを認めよう。神仏の教えを信じて安らぎを得ようとする心のはたらき、希求である。(もちろんこの潜在性が、21世紀の人類までも残るかどうかは分からない。生命科学、生殖医療、人造ロボットなどのテーマは、とりあえずパス。)

「神仏の教え」は、場所と時代によって一様ではない。ここで日本人の宗教感覚について考える。日本人の精神性といわれる内容は、北から南までの列島風土を基盤とする島国土着性と外から渡海してきた外来性との混淆によって形成されてきた。外国からの文物の移入・受容・変容として、平均的日本人の精神性が形成されてきた。

その精神性の最奥の深部に日本人の心性にやどる倫理感、道徳心が潜在しているとおもう。宗教感覚は、合理的な精神性の奥底に位置する一種の無意識の暗部領域であろう。

日本人の宗教感覚の特徴は、つぎのような歴史で形成された重層信仰であるといわれている。

 ①縄文時代ごろ

八百万の神々たち: 神道  開祖なし、経典なし、教義なし  神話、古事記、日本書紀

1万年近く続いた縄文人の狩猟採集社会。アイヌと琉球とマタギにその文化的痕跡。

5世紀ごろ 仏教と儒教の受け入れ、神道と習合、咀嚼、島国化 

  聖徳太子: 17条の憲法  律令制、鎮護国家  宗教彼岸と政治現世  貴族と坊主

15世紀ごろ キリスト教、朱子学、陽明学の受け入れと応用、支配と順応 

  織田信長から徳川へ 武家諸法度 檀家制 世俗仏教 寺子屋 民衆儒教

19世紀   明治維新 西洋思想の受け入れ 脱亜入欧 近代思想

  廃仏毀釈、神社統合、国家神道、 明治憲法 天皇教 教育勅語 和魂洋才

20世紀  敗戦、アメリカ教の受け入れ 

  アメリカ軍の駐留 新憲法  道徳教育反対  「自由人権」信仰 平和信仰

そして 21世紀 : 

グローバル経済 インターネット情報化社会 差異の多様性の共存 八百万の神々?

 

●神道、仏教、儒教、キリスト教は善悪の判断根拠をどのように説明するか?

神道、仏教、キリスト教は、宗教である。儒教は怪力乱神を語らず、宗教色はうすいけれど「天帝」などを観念するので宗教にふくめてもよいだろう。

では、善悪を「反省する」ための根拠を、神道、仏教、儒教、キリスト教は、どのように教えているか。

神道、仏教、儒教、キリスト教は、老人倫理、つまり生命倫理、世代間倫理、社会保障倫理などについて、どのような根拠を提示しているか。

神道、仏教、儒教、キリスト教は、私;良心、共;道徳、公;法律、天;自然とどのように関係するか。

神道、仏教、儒教、キリスト教は、日本人の心情、人情、義理、条理、道理など、生活感覚にねざした「善いこと、悪いこと」とどのように関係するか。

神道、仏教、儒教、キリスト教は、高校の倫理教科書に名をのこすつぎの先人思想家たちとどのように関係するのか。

聖徳太子、最澄、空海、法然、親鸞、道元、日蓮、藤原惺窩、林羅山、中江藤樹、伊藤仁斎、荻生徂徠、本居宣長、石田梅岩、安藤昌益、二宮尊徳、佐久間象山、吉田松陰、福沢諭吉、中江兆民、植木枝盛、幸徳秋水、吉野作造、夏目漱石、森鴎外、内村鑑三、西田幾多郎、和辻哲郎、鈴木大拙、柳田國男、三木清、岡倉天心など。この人たち以外にも、おおくの聖人や哲学者や思想家などがいるだろう。

わたしは、この「神道、仏教、儒教、キリスト教は善悪の判断根拠をどのように説明するか」という問いに回答はできない。それぞれの宗教あるいは思想には、あまりに深遠なる教義があり、論議が重ねられ、万巻の書が積み上げられているからである。

とくべつな宗教体験をもたない日本人である自分にとって、宗教感覚は日常の習俗のなかにとけ込んでいるだけである。

神道、仏教、キリスト教に「善悪の判断」があるとすれば、たしかに「自然や崇高なものとの関係」を根拠にするだろう。その根拠は、死んだあとの来世、あの世の視点から現世の生き方を語るであろう。それは信仰の精神性であるが、私共公天の枠組みでいえば、もっぱら「私と天」の世界を主題とする。現世の「共と公」の世界は、副題にすぎない。

それにたいして、儒教だけは「怪力乱神をかたらず」もっぱら現世を問題にする。現世の「私と共と公」のあり方を主題とする。「天」は、天帝として「公」の易姓革命を是とするものがたりにしか登場しない。儒教は、宗教感覚というよりは、倫理道徳の教えとしての印象がつよい。その教えは、私=修身、共=斉家、公=治国である。その教えを修練する徳目はつぎの五輪五常である。

五輪: 人間関係

  1)父と子  2)夫と妻 3)年長と年少 4)友と朋  5)主君と家臣

五常: 仁 義 礼 智 信

この儒教の教えは、「国が特定の価値観を国民に押しつける」ことになるという理由で戦後の民主教育では否定されたのであった。

では、学校の先生たちは「いじめはやめましょう、人の命を大事にしましょう」という徳目をどのような考えた方をもって、子供たちを指導しているのだろうか。「なぜ人を殺してはいけないのですか」、「なぜ戦争をするのですか」という小中学生の質問にどのように答えているのだろうか。自らを聖人ならぬ労働者であると規定する教師は、「自己の行為または品性を、良心ないし社会的規範をもって律し、善徳と正義をなし、悪および不正をなさぬこと」という「心の内面」の修練を子供たちにどのように教え、指導しているのだろうか

わたしは、「なぜ延命治療をしてまでも70歳すぎた老人を長生きせるのか」という問いを発する。老後の生き方・死に方として老人倫理を問題とする。

しかし、これまで探索してきた西欧流の「倫理学」や世俗的な「宗教」に納得できる気分にはなれなかった。5章以降では、「老人倫理」の思考をもっと実践的な方向、つまり「脱欧入亜」の思想性に転換したい。

 

●5章へ  ~脱人間中心主義 則天去私、敬天愛人 

フランス革命後の近代西欧思想では、人間が自然の生態系の頂上に君臨する。人類は、自然を制御し、自然を支配できるという「つよい人間観」を基盤とする。自由、人権、自立、主体性を尊重する「強い人間観」である。他の生き物たちを食っていきるしかない人間の生命に特別の地位をあたえる。植物と動物を支配できるつよい人間という人間像。近代思想は、人間中心主義である。

この「つよい人間観」が、いじめ問題や生命倫理やいたずらな延命治療問題をひきおこしているのではないか。人情、義理、条理、道理などの知恵=処世術を踏みにじっているのではないか。「天」も恐れぬゴーマンな人間中心主義じゃないか。畏敬の念、畏怖の念を喪失した状況が現代文明社会ではないのか。現代文明社会の精神性は、伝統的な日本風土の心底、深部の感性、潜在性にそぐわないのではないか。

このような問題意識で「天」を考える。「天」とは、自然の森羅万象への畏敬が展開する心象である。「天網恢恢疎にして漏らさず」の「天」の下で人間は生きる。自然の分身にすぎない人間は、「ちっぽけな動物」にすぎない。自由、人権尊重、個人の自主性、個人主義を金科玉条とする近代思想を思考停止することなく問題とすべきではないか。「神は死んだ」、「何でもあり」の思想、信条の自由を前提とする相対主義をこえる思想性が、現代文明社会の先の未来に求められているのではないか。

 「なぜ延命治療をしてまでも70歳すぎた老人を長生きせるのか」という問いに、少壮老の人生三毛作で答えたい。老/終業期を生きる指針として「天にしたがうこと」、則天去私、敬天愛人の思想性をもって 「なぜ延命治療をしてまでも70歳すぎた老人を長生きせるのか」という問いに答えたい。これを次章以降のテーマとする。

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