5.7 老人思想を生きる希望 ~円熟した老後の希望を生きる四つの思想~ 201542

 1)「高齢期を希望に満ちた人生の円熟期」とする四つの思想

2)個人思想と社会思想

3)敬老思想を実践する社会システムイメージ ~公→←私

4)老人思想を生きる「自己努力」の希望的諦観

5)老人思想の倫理観

6)老人思想のとりあえずの実践 ~自立と要支援が重なり合う状態への対応

7)「壮年思想」と「老人思想」の対比

8)「希望」をめざす根本的な価値

 

老人福祉の問題が、経済成長戦略と消費税増税だけで解決できるとは思えない。「私」老人が、「公」国家制度に「公助」を求めるだけでは限界がある。さりとて「公」負担の一部を「共」に移転するのも容易ではない。「共」地域コミュニティの現状は、人情をさえぎる個人情報保護を優先する分断無縁社会である。老人介護を「私」家族に押しつけるわけにもいかない。家族にも生活がある。老人を世話する家族にも支援が必要である。

 このような状況において、それぞれの老人は、どうすれば「円熟した老後の希望」をもてるというのか。

 老人思想のイメージは、つぎのようになる。

(1)   自助: 自分で努力して希望をさがし、その希望の瞑想を道楽とする隠居生活。

(2)  共助: 地域コミュニティやNPOなどの人情を信頼し希望を共有する社会参加。

(3)公助: 国家の福祉制度を信頼し、安心して希望がもてる社会システム。

 そのためには、どうすればいいか。

 この問題解決は、いきなり個別の具体的な政策論レベルの制度設計だけではすまない。自由、人権思想、民主主義などの近代思想を問いなおすレベルでの思想革命が、制度設計と並行しなければならない。

思想革命などとおおげさに構えているけれど、「老人思想」は、いまだ素描にすぎない。妄想をかさねながら「老人思想を生きる希望」を以下に記す。

 

1)「高齢期を希望に満ちた人生の円熟期」とする四つの思想

人はだれでも幸福な人生を求めて生きる。「生きがいをもって、健全で、安らかな生活」をすごしたい。自立老人にかぎらず要支援老人であっても、人間だれしも「楽しく豊かで円熟した人生」を理想とする。

そもそも老人状態は、自立老人と要支援老人のふたつに分けられるわけではない。わたしの老人状態を概念的に、自立程度+要支援程度=1.0とすれば、自立と要支援は、それぞれ程度問題となる。「われわれは皆、程度の異なる「痴呆」である。」(大井玄)のだ。

「楽しく豊かで円熟した人生」の理想とは、熟老人をめざして、平穏な死に至る生活をすごす希望である。その希望を生きる老人思想は、つぎの四つを基本とする。

○私 自助 命、自分の生死を了解する往還思想

○共 共助 人情にもとづき地域コミュニティにとけこむ敬老思想

○公 公助 法律にもとづく国家システムを信頼する人権思想

天 天助 大我、天に安心立命を任せる則天去私の敬天思想

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希望さがしの自己努力 ~三つの自己の統合バランス

老人思想は、老年/終業期を自覚して老後を生きる往還思想の人生観である。
健康であるうちに「発つ鳥跡を濁さず」、「この世の後始末、あの世への旅支度」をする。 身心頭の欲望をバランスよく減らしていく努力をする。

身 ・・・・・身体自己
身体の老化を受け入れながら食を細くする。

心 ・・・・・生活自己

生活範囲を減らし、内面の瞑想にふける楽しみをみつける。

頭 ・・・・・了解自己

納得できないことは諦めて、言葉を捨て、「自分」を捨てる。

 人間関係が「希望」を個人に提供し、個人が受け入れる。

老人思想は、顔のみえる人間関係が共有する「共生思想」の実践である。地域コミュニティやNPOなどが、直接的人間関係において老人世代を敬愛する敬老思想である。
老人世代の社会参加の目的を、「老成義務教育」を受けること、少/学業期世代を応援すること(奨学金バウチャー提供)、祖父母世代が孫世代へコミュニティビジネスを媒介にして「社会教育」を為すこと、などとする。

その社会参加を紐帯にして、敬老思想を自然にそだてる。

 ・自分はあえて作為的に「敬愛」など求めなくてもよいと納得する。<強い人間>

 ・しかし他人から「敬愛」を受けたら感謝の気持ちをあらわす。<弱い人間>

 ・自分が「敬愛」したいと思う他の老人をみつけたら人情をあらわす。<優しい人間> 

 国家が「希望」を個人に提供し、個人が受け入れる。

老人思想は、老人に安心して生活できる環境を提供する人権思想である。

民主主義国家が国民を保護する「人権思想」の根拠(倫理)を考え続ける。

 ・公務員が独占する「公共」概念を「公」と「共」に解体して連動する国家システム。

・民主主義システムの再設計=「共」顔の見える人間関係+「公」制度的人間関係

・戦後解散させられた「町内会・隣組」の再生=自治会、地域コミュニティの制度化。

 自己修養 ~希望的諦観 ==>了解自己

老人思想は、個人が自然な死を従容として受け入れる敬天思想である。

 人間の尊厳ではなく、人智をこえた「生命の自律性」への畏怖・畏敬を基本とする。

自分の命の奥底と世界自然の天涯を瞑想しながら天命への妄想をたくましくする。

 ・自然環境(=動植物+地球)との直接的な体験と畏怖の念。

 ・人間は、せいぜい100年ぐらいしか生きない生物の一種であることの自覚。

・せまいちっぽけな自我をすてる。大我、則天去私、敬天愛人への達観。

 

2)個人思想と社会思想

この四つの思想は、個人思想と社会思想に分けられる。

◆個人思想 

 私:往還思想と天:敬天思想は、自分が勝手に思い込めばよい個人的な思想である。他者に強制できるわけがない。他者と共有できなくても仕方ない。しかし他者と共有できればうれしい。「私」と「天」を基盤として、つぎの社会思想を考えるからである。

◆社会思想

 共:敬老思想と公:人権思想は、自分勝手な考え方では意味がない。社会的に共有されなければならない。敬老思想は、顔の見える一定の範囲の仲間=人情にもとづく価値観の共有思想である。人権思想は、民主主義国家の憲法レベルの国民=法律にもとづく価値観の社会思想である。

 人権思想は、あきらかに現代日本人に共有されている。敬老思想は、あきらかに現代日本人に共有されていない。義理と人情が、はばをきかせる世の中ではなくなったからである。

「わたしは、地縁家族=疑似大家族の共人として、地域コミュニティ(自治会、マンション管理組合)が経営する互助会(コミュニティビジネス)に社会参加し、お互いに支援したり、支援されたりしながら、生きがいをもって、健全で、安らかな老後をすごす」などという敬老思想は、いまのところ絵空事、ユートピアにすぎない。

個人情報保護がうるさい社会である。マンションという集合住宅の地域コミュニティは、互助の精神など基本としていない。マンション設計そのものが、互助精神とは逆の「ホテルライクのプライバシー保護」という人間関係の分断思想である。住民どうしのホドホドの人間関係をつなぐ「縁側」施設などの設計思想はない。

しかし、内閣府の報告書(案)は、「互助」の精神をつぎのように強調する。

◆全ての世代が積極的に参画する世代間及び世代内の「互助」の精神が求められる。

◆顔の見える助け合いである「互助」を再構築する~「地域力」、「仲間力」を高める。

 実際、時代の風潮はおおきく動いている。都市の集合住宅団地および地方の集落の全国各地において、「顔の見える」さまざまな互助活動が、取り組まれている。「公」の縦割り行政のハード社会システムの壁をこえて、カオスからソフトな社会システムづくりの挑戦である。

いまや都市と田舎、全国各地の自治会やNPOなどの互助プロジェクトが、「共」社会思想を共有し、連携・交流できる、おおきなうねりへの希望がある。

 

3)敬老思想を実践する社会システムイメージ ~公→←私

厚労省と内閣府など国家行政の老人福祉政策の根拠は、顔のみえない「私→公」関係の人権思想である。

だがいまや、人口減、高齢化社会において「公」が、「私」の権利要求に応えられなくなった。「公」の負担軽減策は、避けられない。

そこで、公助から自助、自己力への負担の転換方針がでてくる。私;家族が世話をする「在宅」措置の促進政策となる。人権思想の保障限界を、血縁の情愛感情で補完する思想転換である。しかし、核家族の時代、「在宅」の世話にも限界がある。そこで家族は、地域包括センターに相談することになる。公→私→共→公への福祉制度基盤の転換である。

では、この転換は、どのような意味をもって日本の社会構造を展望するか。

戦後の日本社会の現状は、国家=行政機関・役所が「公共」を独占している。その構造は、「私」国民が、「公共」国家システムに依存している構造である。それを私→{公共}という図式で表す。

老人思想は、日本社会への思想革命を標榜する。その核心は、公務員が独占する「公共」を、「公」と「共」に分離することである。そこで、私→{公共}の図式を、「私→共←公」に転換する。この図式が、老人思想の希望と実践がむかう基本的な社会システムイメージとなる。

 

4)老人思想を生きる「自己努力」の希望的諦観

「私→共←公」とは、「私」の人権の一部(選挙権もふくむ!)を「共」にゆだねること、「公」の役割の一部を「共」に移管すること、というほどの意味である。この「共」が、互助精神であり、共生思想であり、敬老思想の実践領域にほかならない。

もちろんいまのところ「共:敬老思想」は、ユートピア、桃源郷である。往還思想、敬天思想、共生思想、敬老思想などなど、思想というにはおこがましい。単に浅薄な構想、妄想、夢想レベルでしかない。

だが、四つの思想を「考える、きたえる」時間つぶしが、老後の道楽であり趣味となりえる。「思想を考える」ことが、わたしにとって老後を楽しく生きる希望となる。

人は、現世に生きながらも、物語や映画や芝居などの「妄想」世界を楽しむ。そこで勇気づけられたり癒されたりする。わが「身」体が不如意になり要支援状態になったとしても、「心頭」は健やかに「妄想」を楽しめればよい。

だから、どんな老人状態になっても妄想世界の希望を「頭」にえがきながら「心」で楽しめば、余計な不安などはなくせるだろう。自分流の「宗教」だとおもえばよい。

自立老人は、元気なうちに「この世の後始末、あの世への旅支度」のつもりで社会参加を楽しめばよい。

要支縁状態になったら、ありがたく感謝しながら「共助」、「公助」の支援を受けたらよい。ボケになることも仕方ない、「心配無用」という心構えを楽しもう。

わたしが「内面の瞑想にふける」隠居生活を楽しむ状態は、他者からみたら、コミュニケーション不能、理解不能だと観察されるだろう。世間とのコミュニケーションを隔絶して、自分の内面世界だけを生きることが、ボケ、痴呆、認知症と観察される老人状態ではないか、とわたしは思う。ボケでもいいじゃないか。

 

70歳をこえた老人は、それぞれの人生街道を歩いてきた多様な経験をもつ。どんな老人状態であろうと、少/学業期をすごす若者にとっては、人生のお手本となりえる。そこに世代間交流の意義がある、と考える。

立派に成功をおさめた「超老人」だけが、人生のお手本になるわけではない。ほとんどの人の人生は、ちょぼちょぼ、ほどほどである。その姿で若者と交流すること自体が、老人の社会参加であり、若者への「社会教育」になるのではないか。

わたしは、自分が認知症になることも、自然現象として受け入れる努力をしたい。できるだけ「穏やかなボケ」になることを「天」にむかって祈る。

この心境を希望的諦観とよぶ。その心境の全体像が、下の「妄想」である。

 

「共←公」は、国家システムの制度設計レベルの「妄想」である。
国家の「基本的人権」保障制度の一部を「共」に移管する。個人情報保護も。

「私→共」は、生命論、人間論、社会観、自然観などの哲学レベルの「妄想」である。
個人の自由と人権の一部を「共」において自制する。選挙権の委任も。

「私→共」と「共←公」は、「共」の倫理観、価値観レベルの「妄想」を基盤とする。
法治主義に対抗する「義理と人情」にもとづく「共」を制度化する。

「天」とは、「共」が成立する倫理観、価値観の根拠である。
ちっぽけな自我を溶かして大我を修練することにより「共」思想を育てる。

以上、「私→共←公」の図式は、老人思想を構成する4つの思想関係のつぎの図式に等価変換される。

「天」敬天思想 → 「私」往還思想    (近代思想)

↓ 「共」敬老思想 ← ↓「公」人権思想 

 

5)老人思想の倫理観

老人思想は、「私」の自由・欲望・人権を抑制する根拠を、「共」と「天」に求める。根拠とは、つぎの倫理観の意味である。

 (1)老人倫理  ;私

延命治療をしてまでも長生きするのは不自然で気持ちがわるい。天寿でよい

(2)世代間倫理 ;共

 老/終業期世代は、少/学業期世代を支援すべきである。循環、お返し。

(3)社会保障倫理 ;公

  資本主義「マネー」とは独立した「地域通貨」等の人情メディアを導入する。

(4)生命倫理 ;天

人間は他の動植物の生命を食っていきるという自覚をもつべし。脱人間中心。

 

6)老人思想のとりあえずの実践 ~自立と要支援が重なり合う状態への対応

わたしは、2015年1月現在、自立して生活できる状態にある。70歳をこえた妻も姉も自立している。とはいえ、「自立」などというのは、おこがましい。

衣食住、通信、移動など生活に必要な物事は、圧倒的に社会システムに依存している。日本は、世界一安全安心な社会である。日本国家の法治秩序に保護されて、わたしは狭い自由を選択し、自立できているにすぎない。「自立」といっても、「金」と交換して取得した物事を、自分の手足で処理できる程度の意味でしかない。「私」は圧倒的に「公」に保護されているのである。

だからわたしは、「公」に感謝する。「公」とは、国民「みんな」である。だから、わたしは、「皆様」に感謝しなければならないという理屈になる。この感謝の念は、「弱い人間」像である。人間の尊厳と人権の権利主張をさけぶ「強い人間像」の対極にある。

幸および不幸なことに、人間は動物とちがって「狭い自立=自分の手足で処理」できなくても、社会が支援してくれる。基本的人権、福祉制度である。

その支援の程度が、いまや自然な身の丈をこえてきた。そこに「人間の尊厳」に抵触する「悲惨な老人問題」が登場してきたのである。

だが、とりあえずその「悲惨な老人問題」は、わが身辺には存在しない。

しかし、わたしも妻も姉も地域の隣人も親しい知人も、要支援老人になる潜在性が可能性に転化する確率は、年ごとに高まる。老人は、だれしも自立と要支援が重なり合う状態になるのは、明らかである。自立と要支援が重なり合う状態ながらも「希望に満ちた人生の円熟期」とするには、どうするか。

いまのところ、四つの思想の実践は、つぎのようになる。

A; 自分が要支援状態になることへの対応

(1)どういう状態のとき「支援を要求」するか。

  a.妻や親族に、どのような「支援を要求」するか。
==>自分の死生観、「往還思想」を伝える。

なるべく負担をかけない要求にとどめるが、自分の死生観をおしつけない。
わたしに対する妻や子供たちの気持ちを尊重する。

  b.隣人や自治会、NPOなどの地域コミュニティに「支援を要求」できるか。
==>要求できる人間関係と仕組みはない。
   *共生思想にもとづく「敬老思想」の根本的なテーマ。

  c.民間企業の老人サービス事業にどのような「支援を要求」するか。
==>利用しない

d.国家の老人福祉制度にもとづいてどのような「支援を要求」するか。

 ==>妻や親族の判断にゆだねる。
*「私共公」三階建国家論と「人権思想」の革命的なテーマ。

  (2)自分は「支援を要求しない」が、誰かが「支援を申し出たとき、どうするか。

e.支援を受けないとすれば、どう生きるか。
==>家族や周囲に迷惑をかける状態なら「拘束介護」を受け入れる。
   要支援状態を天命と受けとめる。大我、則天去私、「敬天思想」。

f.妻や親族の情愛にもとづく支援にどう対応するか。
==>A(1)a.なるべく負担をかけない支援にとどめる。「往還思想」。

g.隣人や自治会、NPOなどの地域コミュニティの人情にもとづく支援申し出にどう対応するか。
==>身の回りの現状では想定できない。

*共生思想にもとづく「敬老思想」の根本的なテーマ。

h.民間企業の老人サービス事業の広告にどう対応するか。
==>利用しない。

i.国家の老人福祉制度にもとづく支援にどう対応するか。
==>A(1)a.妻や子供たちの判断を尊重する。

*「私共公」三階建国家論と「人権思想」の革命的なテーマ。

B; 妻や姉が要支援状態になることへの考え方

(1)相手が「支援を要求しない」とき、どう対応するか。

  j.自分の情愛、思想信条よりも、相手の気持ちを尊重する。
基本的人権や生存権などの「権利思想」はもちださない。

(2)相手が「支援を要求」したとき、どう対応する。

k.自分の体力と経済力の範囲内で、できるかぎり支援する。

 *自分がどの程度まで献身的な世話ができるか、今は分からない。

l.相手と相談して、NPOなどの老人サービス事業に「支援を要求」する。

m.相手と相談して、民間企業の老人サービス事業に「支援を要求」する。

n.相手と相談して、国家の老人福祉制度に「支援を要求」する。

 C:地域の隣人や親しい知人らが要支援状態になることへの考え方

  o.現状では支援しようと思う人間関係と仕組みがない。

*共生思想にもとづく「敬老思想」の根本的なテーマ。

*「私共公」三階建国家論と「人権思想」の革命的なテーマ。

 D:自立と要支援状態に関係なく、どのように「社会参加」するか。

   ==>「5.8 老人思想の社会的実践」で考える。

 

7)「壮年思想」と「老人思想」の対比

老人思想の実践と制度化は、「思想革命」と並行しなければならないと大きく構えた。その思想革命をつぎのように対比する。

◆壮年思想 ・・・・ハード社会システム  限定合理性、無情倫理

 公・仕事・自由・平等・博愛・軽天・競争・成長・会社・無情・自我・強私・所有・血縁家族など 

◆老人思想 ・・・・ソフト社会システム  不条理性、人情倫理

 共・生活・自制・多様・隣愛・敬天・共生・安定・地域・人情・大我・去私・共有・地縁家族など 

 

対比する視点と射程は、政治、経済、文化、倫理、哲学など、それぞれの領域を横断しながら拡散してひろがる。それぞれの論点の考察というか「妄想」が、どこまで行けるか分からない。これから逝くまでのおおきな宿題であり、道楽でもある。

ここでは、思想の対比を基礎づける価値観について、「老人思想の希望」かんたんに記す。

 

8)「希望」をめざす根本的な価値

近代思想をうけつぐ現代社会の価値観を、社会の中軸をになう壮年期世代の価値観とみなす。

近代思想を問いなおす老人思想は、壮/職業期世代の価値観とは別の老/終業期世代の価値観を根底にすえる。壮年期の仕事中心価値にたいして、老年期の生活中心価値を対置する。老人思想は、近代思想の合理性および倫理性という価値観への対案である。

その結論を端的にいえば、つぎの二点である。

●人間関係 
①記号情報を介在した間接的な人間関係==>②顔のみえる直接的な人間関係 

●生活環境

  ③人工物環境==>④山、里、川、海と動植物などの自然環境

いうまでもなく、老人思想の「共」が②であり、「天」が④である。

 

壮年期の価値観は、仕事中心である。仕事=経済=自由競争=勝者=富=貨幣にもとづく価値観が、現代思想の主流である。その現代思想の淵源は、近代西欧思想である。そして近代西欧思想の「倫理性」と「合理性」が、長命社会をもたらした。

倫理性 ―→人間の自由と人権尊重、福祉国家制度―→長命

合理性 ―→自由な研究、医療など科学技術の発達―→長命

ところがいまや「人権尊重」をかかげた近代思想が、長命社会を生きる「人間の尊厳」をあやうくしている。倫理性と合理性のギャップという社会的な病理現象である。

この逆理にどう向きあうか。

それが、「仕事中心」の価値観から卒業した老人思想である。老人思想の希望は、人間関係において、人情をベースとする「顔のみえる直接的な人間関係」の喜怒哀楽に価値をおく。倫理性の再生である。生活環境において、「山、里、川、海と動植物などの自然環境」に価値をおく。合理性を包摂する不条理性への畏怖と諦観である。

この価値実現をめざした「社会教育」として、都市の団地および田舎の集落において、さまざまな共生・互助・互楽プロジェクトを試行錯誤する。都市プロジェクトと田舎プロジェクトが交流・連携する。世代間が交流する。

そういう希望をもって、「人間の尊厳」をあやうくしている現代社会の病理現象に立ち向かう。

長命社会では、年金でくらす老人世代が、ひとつのおおきな社会勢力となる。仕事中心でない老人世代が、人類史上ではじめてあらたな非権力的な社会勢力として登場した。

この老人世代という社会勢力は、仕事中心価値とはちがう価値観で生きる可能性がありうる。その可能性は、仕事中心価値の倫理性と合理性を根本的に問いなおすことによって見つかるかもしれない。

その可能性は、これまでの壮年期世代を中心とする一元的な国家システムではなく、壮年期世代中心と老年期世代中心の二つが共存する一国二制度的な国家システムを展望する。「老人思想」は、中央集権的で均質な統制を原理とする国民国家への革命思想でもある。

老人思想は、国家が「公共」事業および「公共」の福祉を独占してきたことへの創造的批判であり、「公共」を「公」と「共」に分離して統合する国家論である。「公」壮年世代と「共」老人世代が、異なる原理で社会を構成する「私共公」三階建国家思想である。

○政治 民主主義

「私」と「共」を、直接民主制とする。「共」と「公」を、間接代理民主制とする。「共」にも選挙権を付与する。

○経済 資本主義

 「公」は、万能価値の法貨を管理する。「共」は、使途限定の「共券通貨」を管理する。

 

このような対比を、根本的な思想革命とよぶ。

老子の「小国寡民」だの安藤昌益の「自然世」などの先人の知恵を一知半解で盗みながら、妄想三昧、隠居生活を楽しむ。これもまた「老人思想」を生きる希望的諦観である。

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