5.6 老人思想 ~「老人意識」と「老人状態」の定義   2015320

1)「老人思想」の不在

2)老人福祉制度に「老人思想」を必要とする理由

3)「老人思想」の基本的考え方

4)老人思想を考える枠組み~システム論哲学

5)老人思想~「少壮老/人生三毛作」人生論

6)老人思想 「老人意識」と「老人状態」の定義   

7)老人福祉政策への提案

8)参考資料 ~老人福祉施設の需要と供給のギャップ(2013年度)

 

老人思想~「少壮老/人生三毛作」人生論の「老人意識」と「老人状態」を定義する。

まず老人福祉政策において、「老人思想」を必要とする理由を述べる。つぎに「老人思想」の人間論と「少壮老/人生三毛作」人生論を哲学的に素描する。そして老人福祉政策において適用すべき「老人意識」と「老人状態」を定義する。

最後に老人福祉政策について提言する。

 

1)「老人思想」の不在

 横浜市の「広報よこはま」20151月号に林市長の「27年の念頭にあたって」がある。

~引用

 「女性」「若者」「シニア」の方々が一層活躍できるようサポートするとともに、生活にお困りの方に対す支援を強化します。

横浜市を健康寿命日本一の都市にしてまいります。

うえの「シニア」とは、老人のことだと思う。「孫と広げるシニアライフ」という新聞記事もみた。世間の人も市長も、なぜ「老人」といわずに「シニア」などというのだろうか。

健康寿命を延ばすというけれど、平均寿命もまだ延びる。老いの追いかけっこである。市長は、健康寿命と平均寿命のギャップ期間を生きる「老人意識」をどのように認識しているのだろうか。

2012年度の医療と介護の公的な費用は、合計約43兆円。2025年度に70兆円を超すと厚労省は推計する。そこで費用の抑制が課題になる。その対策のひとつが、健康寿命を延ばすことである。

健康寿命とは、支援を要せず自立して暮らすことができる期間を示す。2013年時点で男性71歳、女性74歳である。平均寿命と約10年のギャップがある。

厚労省は健康寿命を延ばして、介護が必要になってから死亡するまでの期間を短くするため、生活習慣病や癌や認知症の早期発見などを政策課題とする。横浜市は「よこはまウォーキングポイント事業」に取り組む。

だが平均寿命のほうも、まだまだ延びる。生命研究者は、「2015年は寿命革命元年、30年後の2045年の平均寿命は100歳になる」という。「15時間寿命が延びる」計算である。細胞内の老化物質を駆除する仕組みをマウスの体内で実験した。結果は、人間でいえば60歳並みに老化した身体が、20歳代に「若返った」ことが確認された。長寿遺伝子が発見された。

万能細胞、生殖医療、再生医療、臓器移植、老化をくいとめる、若返らせる、など医療技術の研究開発と医療製薬ビジネスの拡大は、とどまるところがない。人間が「いつまでも生き続ける」ことに価値をおく社会思想である。

 

2)老人福祉制度に「老人思想」を必要とする理由

行政において、研究開発において、人生観において、「健康思想」はあっても、「死亡するまで」の生き方を指南する「老人思想」はない。老人といわずシニアという。老人思想の不在。これは、なにをもたらすか。

 「死に向かう老人思想」の不在は、老人福祉について多様なテーマをもたらす。ここでは人命尊重=人間の尊厳=人権尊重をタテマエとする「延命治療」を問題とする。その事例としてつぎの新聞投書を引用する。

~最期 患者の意思を尊重して~

93歳の母は、2年前に癌の手術をした。最近とても具合がわるくなった。医師は、「あと12か月の命」と診断した。

本人と家族は以前から「自然な死を迎える」という選択を話し合っていた。母は、「延命はしてほしくない」と宣言書をしたためていた。その希望を医師に伝えた。医師は「まだホスピスの時期ではない」と言って、栄養剤の点滴をする。

腕の針の痕が痛々しい。足はむくみ、夜間に眠らせるための注射が打たれる。苦しみを長引かせているだけのようで、つらい。

家族で終末医療の病院をさがした。40日後に転院。点滴は外され、拘束もとれた。母の表情は穏やかになった。まもなく身体は衰えて死を迎えた。これが自然な姿なのだと、家族は納得して受け入れた。

「延命はしてほしくない」と書き残した母の意思が尊重されず、医療側の判断が優先することに疑問をいだく。

・・・・・・・・・

 いっぽうでは、つぎの事例もある。新聞の俳句投稿欄から引用する。

医者: 余命半年です。延命器具をつけますか?

本人: いいえ結構です。

 そして、寝たきりののまま二年半、句作にふける。奇跡的に病状が回復。お陰さまで余生を楽しんでいる。「蟻地獄 脱して甘き 余生かな」(岸田健)

 

○医療行為の算術、技術、仁術  

老人にほどこす延命措置の是非は、人間一般にかかわる尊厳死や安楽死の問題ではない。余命わずかの難病をもって生まれた嬰児への「緩和ケア」と同列ではない。10歳のこどもの命と80歳の老人の命を「おなじ」とみるか「ちがう」とみるかの生命思想、死生観、社会思想の問題である。

医者の仕事には、「人を生かす」という視点しかない。「老人は死に向かう」という視点が、医者の仕事に薄いことを、往還思想は、重大な社会思想問題だと考える。

医療行為に「死生観」が欠如している。臨終直前の終末ホスピスと看取りにいたるまでの「老人思想」哲学がない。行政の社会保障制度の設計においても、そういう医療行為を当たり前としている。

医療行為は、遺伝子学、分子生物学、電子顕微鏡、コンピュータ、マウス実験などを駆使する物質科学の知性教養を応用する。

福祉制度は、人命尊重、人権思想という人間科学の文化教養を適用する。

医療行為と老人福祉制度における「死生観」の欠如は、物質科学の知性教養と人間科学の文化教養の亀裂を隠蔽する。

その亀裂に現代社会思想の陥穽がある。人命尊重、人権思想における「死に至る」人間像の欠如=「死生観」の欠如である。それは、どこまでも可能性を追求し、諦めず、実現性の奇跡をおいもとめる、奇妙な「科学技術」信仰思想にほかならないのではないか。

医療行為は、病人、患者という人間の肉体、臓器を物質的に操作する処置である。医療行為は、病人を健康人にしてくれる。病気でない人、患者でない人、治癒の見込みのない人は、医療ビジネスの客ではない。

病人ではないが自立できない老人への介護行為は、人間の身体動作だけを処置するわけではない。加齢にともなう身心頭の自然な衰え・老化へのトータルな生活支援である。

だから、老人福祉、介護行為は、人間論としての文化教養をベースとする。介護は、人の身体への対応だけではなく、人情=人の心情=魂への対応もともなう。人間を物質構造と解剖するしかない医療行為よりも、介護行為は、はるかに難しく複雑である。やっかいである。

 

ところが医療行為者の報酬と介護行為者の報酬の落差があまりにも大きい。老人を患者とする医者の「算術、技術、仁術」の現状は、もっと問いなおされるべきではないか。

国境なき医師団、地域医療に献身的な医者、患者に寄りそう人情家の医者も少なくない。わたしの知人にも尊敬したい医者が何人かいる。

しかし、医者は「人を生かし続ける」ことの専門家である。臨終直前の終末ホスピスにいたるまでの「老人思想」は、医者の個人的な性格や信条に任されている。

医療行為に「死生観」が欠如していること、老人福祉制度もそういう医療行為を当たり前としていること、この思想性を問題にしているのである。医者に文句をいっているのではない。

老人医療と介護の費用を抑制する対策として、生活習慣病や癌や認知症の早期発見、健康寿命を延ばすことには、とても意義はある。

しかし、健康寿命と平均寿命のギャップ期間の「老人の心情=魂=意識」の問題はのこる。人は必ず老化し、要支援状態になり、終末期をすごし、看取られて、そして生をおわる。

古希すぎても健康な「元気老人」の生き方が、「壮年思想」のままの延長でよろしいのか。

ピンピンしてコロリと逝かないかもしれない。自分が、要支援状態になるかもしれないことに、元気なうちにどのように準備するか。

老化にともない自立できない老人=介護などの支援を要求する「要支援老人」は、どのような心構えで、介護を受けながら、死を受け入れる準備をするか。

この問いが、老人福祉制度設計において、宗教ではなく「老人思想」を必要とする理由である。

 

3)「老人思想」の基本的考え方

これまでの老人福祉制度をささえてきた社会思想のキーワードを、すでに健康思想、社会参加思想、敬老思想、尊厳思想に要約した。この思想にたいして、ここで提案する「老人思想」は、つぎの考え方を基本とする。

○私 健康思想への意見 往還思想 死生観

老齢に伴う心身の変化を、老化=「死に向かう」自然現象として自覚する。「われわれは皆、程度の異なる「痴呆」である(大井玄)。だから健康であるうちに「発つ鳥跡を濁さず」、「この世の後始末、あの世への旅支度」をする思想が必要である。

○共 敬老思想への意見 老人福祉制度と並立

 戦後の日本社会では、家制度と集落共同体が崩壊した。「敬老思想」はすでに形骸化している。だから地域コミュニティにおけるあたらしい老人意識、老人像にともなう「敬老思想」の再生が必要である。

○公 社会参加思想への意見 国家論と共存する共生思想

壮年期思想の延長のままの老人が競争社会に参加することは、「老人の冷や水」=老残・老害である。だから老人世代の社会参加の目的を、少/学業期世代を応援すること、祖父母世代が孫世代へ「社会教育」を為すこと、とする「共生思想」を明確にする必要がある。

○天 尊厳思想への意見 敬天愛人 人間論

 人命尊重、人権思想を「人間中心ゴーマン」思想とみなす。人間の尊厳ではなく、人智をこえた「生命の自律性」への畏怖・畏敬を基本とすべき思想が必要である。敬天愛人。

 

4)老人思想を考える枠組み~システム論哲学

思想構築は、哲学を基礎とする。老人思想を考える枠組としてシステム論哲学を適用する。

システム論哲学は、関心を向ける対象を「システム」として認識し、システムのⅰ)内側、ⅱ)境界・縁、ⅲ)外側の三つの視点から対象を体系的に記述する思考法である。

ⅰ)内側 対象の内部構造とその作動を記述する                

ⅱ)境界 環境からの刺激の選択的知覚、環境への選択的応答、相互作用を記述する

ⅲ)外側 対象を外部の視点から観察して記述する

対象の内側から外側を観察する思考を「天動説」とよび、逆に外側から対象を観察する思考を「地動説」とよぶ。

ひとつの対象は、記述の精緻レベルに応じて、三つシステム特性をもつ。ひとつの対象は、つぎの三相・三層システムの合成として観察される「カオソフード」なシステムである。。

a.きっちりハードシステム ・・・・・・・「手段→目的」限定合理性

b.ほどほどソフトシステム ・・・・・・・「原因→結果」包括蓋然性

c.ばらばらカオスシステム ・・・・・・「動機→行動」個別恣意性

人と社会を対象とする老人思想を考えるシステムは、b.とc.の中間にある。

 

人の内側構造は、人体の解剖学的な器官や組織の物質的な関係で医学的に記述されるハードシステムである。その構造は、人の生命力=本能的=生理的な身心頭の欲望を作動させる。その作動は、自然の自律原理である。

それは、わたしが意識できない自律運動と意識的な意志運動に大別できる。

意志運動は、外部との境界条件に起因する作動(条件反射やコミュニケーションなど)と外部に関係しないで内部状態に起因する作動(内省、妄想、瞑想など)に大別できる。

意志的に境界条件に反応する作動は、潜在的に有限な内部状態の一部である。それは、境界条件の変化などを知覚できる(センサーがはたらく、スイッチがオンにされた)内部状態である。この状態を、身心頭の潜在性が活性化された可能性状態とよぶ。

その可能性状態に在るシステムが、外側条件を選択的に知覚し、内部構造が作動し、境界において実現状態を現象させる。

外側は、そのシステム現象を観察して記述できる。そしてシステムの内部構造は、その作動を為すことによって、内部状態を変化させる。{原因{内因・縁・外因})→結果(内部、外部)。(参照:システム論の状態遷移、オートマトン理論)

 

人の外側は、(1)社会=人間関係、(2)記号情報、(3)自然、(4)人工物に大別できる。太古の時代の人は、(1)社会=直接的な人間関係(人情)と(3)自然の二つの環境を生きた。

人は、道具をつくり、言葉を使うことによって、人の外側を変化=進歩させてきた。そしていまや、(1)社会の人間関係は、(2)記号情報を媒介にした間接的な人間関係(無情)に転化した。いまや人は、衣食住と移動や運搬などさまざまな(4)人工物設備機械に支えられる都市生活において、(3)自然環境を決定的に失っている。

ここで社会を、「私―共―公―天」に分節すれば、つぎのシステムを観察し、記述することができる。

・「私」 対象=自分 個人システム 

内側= 生命力、身心頭、身体自己+生活自己+了解自己
環境= 社会、自分が属する種々の「共」集団、「公」日本国家、天・自然

・「共」 対象=自分たち、仲間 集団(社会)システム 

内側= 顔の見える直接的な人間関係 ~人情
環境= 仲間以外の「私」、他の「共」、「公」日本国家、天

・「公」 対象=国民 国家(社会)システム 

内側= 制度を媒介にした間接的な人間関係 ~無情

    環境= 日本国籍以外の「私」、種々の「共」、外国、天

・「天」 対象=全体 非システム 「天」はシステムにあらず。
内側= 「天」は全体だから内も外もない。
環境= 「天」には外部環境が存在しない。 

 

以下で述べる「老人思想」は、「人=人間とはなにか」という「人」を対象とする人間論の一部である。その人間論は、人の内側の視点から自分を理解し、そして外側の社会にむかう個人思想である。

「私共公天」の枠組みを適用すれば、老人思想のテーマはつぎのようになる。

・「私」 対象=自分 個人システム ・・・・・・生命論、人間論、人生論  

生命力、身心頭、身体自己+生活自己+了解自己

自分とはなにか。老後をどうすごすか。死にむかってどのように準備するか。

「共」地域コミュニティ=マンション団地自治会などにどのように参加するか。

「公」老人福祉制度の権利と義務をどのように実行するか。

「天」自然な死を迎えるにはどうしたらいいか。

・「共」 家族、地域隣人等から自分への「老人としての措置」をどう受けとめるか。

・「公」 国家の制度から自分への「老人としての措置」をどう受けとめるか。

 このテーマを考える方法はつぎのようになる。

 ⅰ)わたしは、自分の「内側」を観察する 

人生の幸福をもとめる。老後の安心立命をもとめる。

自分の内部を探求する。生命の奥底に向かい、その先に死を直視する。

ⅱ)わたしは、自分の「外側」の社会を観察する ==>自分中心の天動説

社会で70数年を生きてきた。その老人は社会とどのように関係するか。

   個人から社会にむかう関係、因果の能動的縁。

社会からわたしにむかう関係、因果の受動的縁。

ⅲ)わたしは、自分を社会の側から観察する ==>自分喪失の地動説

  共; 顔のみえる直接的人間関係から老人をみる社会システム、「共生」思想

公; 憲法と法律にもとづいて国民である老人をみる社会システム、「国家」思想

天; 観察可能な事象を超えた心眼・観想から老人をみる非システム、自然思想

 以上の枠組みにおいて、老人思想は、つぎの視点から合成される。

  A:自分は、「老人である」という意識        ・・・・ⅰ)内側  

  B:自分が、「老人として」社会(共・公)に参加する意識 ・・・・ⅱ)縁、境界

  C:社会(共・公)が、わたしを「老人である」とみなす意識 ・・ⅲ)外側

老人思想にもとづく老人福祉制度設計の課題は、A:C:の一致によるB:の実践である。

 

5)老人思想~「少壮老/人生三毛作」人生論

孔子は、“十有五志学、三十立身、四十不惑、五十知天命、六十耳従、七十従心”というぐあいに人の一生を区切る。

ここで提案する老人思想は、人の誕生から消滅までの自然な一生を、「少壮老」の三つの時期にわける。

少は20歳の成人式まで。壮は60歳の還暦まで。老は逝去まで。

この人生論を、「少壮老/人生三毛作」という。

それぞれを、少年/学業期、壮年/職業期、老年/終業期という。

◆私:老人思想とは、老年/終業期を自覚して老後を生きる人生観である。

◆共:老人思想とは、地域コミュニティが老人を敬愛する敬老思想である。

◆公:老人思想とは、国家が老人に安心して生活できる環境を提供する人権思想である。

◆天:老人思想とは、個人が自然な死を従容として受け入れる敬天思想である。

 

老人思想をイメージするために、以下のように、少壮老を対比して図式化する。

    少 ・・・    壮 ・・・・   老 ・・・

              学業期    職業期     終業期

生命力/身心頭   誕生・成長     安定     老化・消滅

死命力/老人意識  凍結      萌芽      旺盛

我/主体意識     無我      自我      大我

人生街道        上り坂     頂上      下り坂

家族           子ども     父母      祖父母

努力目標        自立への訓練   自立、責任   後始末、旅支度

心構え          未来への希望   現在の重視   過去の総括

私・自由、欲望     本能      社会規範    自制、則天去私

共・人間関係の場所  学校      職場      地域・自治会

公・権利と義務     保育・教育    勤労・納税   次世代支援

競争と共生       仲良く訓練    競争      共生

医療の目的       健康増進     健康回復   鎮痛・鎮静・平穏

介護の目的       リハビリ     リハビリ    不安と羞恥の除去

 

2章の「往還思想」を要約して再掲する。

○この人生論は、「生/誕生―{成長―安定―退化}―消滅/死」という生命現象の生き方と逝き方の有機思想である。

 

○人間は、生物の一種である。生物の「命」は、生きるエネルギー生命力と消えるエネルギー死命力をもつ。命は生死の表裏一体である。

わたしは、一定の「命」エネルギーの潜在量をもってこの世に誕生した。燃料を満タンにして人生街道を走りだした。事故もおこさず、走り終えて、燃料が切れた時が生命の自然消滅である。生命力は、燃料への点火欲望(オートポイエーシス)である。死命力は、生命力を抑制する人体のメカニズム(アポトーシス)である。

老化にともなう痴呆症や癌や脳障害などを、死命力のはたらきとみなす。

 

○わたしは、植物と動物の命と肉を、噛みくだき、飲み込み、消化し、栄養を摂取し、残余を排泄して生きる。生命力は、他種生命の殺傷摂取能力と消化能力と不要物の排泄能力である。その能力は自然に劣化しながら死命力に転化する。わたしが長命であることは、他種生命の大量殺傷にほかならない。

 

○人間の生命力は、我が身心頭を動かす。生命力の程度は、横軸に年齢をきざみ、縦軸に活動能力を表示する座標に放物曲線をえがく。

「身心頭」とは、身=身体の欲望、心=気持ちの欲望、頭=理性の欲望である。

生命の活動能力とは、「身心頭」の欲望を統合する調整能力=主体性、自我、個性、人格である。統合調整能力は、本能レベルの潜在性から実現の可能性への教育訓練を必要とする。

少年/学業期は人生の上り坂。未来志向で潜在性を可能性へ蓄える、夢と希望。

壮年/職業期は、人生の頂上。現実重視で可能性を実現性へ、自由競争と社会規範。

老年/終業期は、人生の下り坂。過去の総括、実現性から諦観へ、次世代支援と共生。

 

○三つの自己

 身心頭の欲望は、自分を三つの自己に分裂させる。「身体自己、生活自己、了解自己」である。身体自己は、固体としての生理衝動を生きる。生活自己は、社会の人間関係を生きる。了解自己は、身体自己と生活自己を統合させて生きる。

幸せな人生は、「身体自己、生活自己、了解自己」のバランスにある。

 

○人生三毛作は、「少に学べば壮にして為すことあり/壮に学べば老にして衰えず/老に学べば死して朽ちず」という江戸時代の儒学者のことばに対応する。

「学ぶ」とは、生命活動能力の修練とみなす。「修身」=身体の欲望の修練、「正心」=気持ちの欲望の修練、「誠意」=理性の欲望の修練とする。

少年/学業期は、「自立できる」希望への学業訓練である。壮年/職業期は、「自立」の実践試練である。老年/終業期」は、「自立できなくなる」諦観への終業訓練である。

「老に学べば死して朽ちず」とは、「老人が少年たちの世話をする。その少年が壮年期に何かを為す。こうして老人世代が次世代にバトンタッチする。だから死して朽ちず」という循環思想である。

 

○個人の「私」が向きあう空間の広がりを「共―公―天」とする。「少壮老」の時間軸の少年/学業期を「共」空間に対応させる。壮年/職業期を「公」空間に対応させる。老年/終業期」を「天」空間に対応させる。

 

○「生/誕生―{成長―安定―退化}―消滅/死」の人生論において、生命は「あの世」=>「生/誕生{この世}消滅/死」=>「あの世」という図式で循環する。

誕生を、「あの世」=>{この世}への「往」として神道の祭りに対応させる。

消滅を、{この世}=>「あの世」への「還」として仏教の祭りに対応させる。

「あの世」を、日本人が縄文人から伝統的にうけついできた「八百万の神々」の「お天道様」が位置する世界とみなす。おおくの日本人の無意識にひそむ宗教観である。

「あの世」と{この世}を一体化して「天」とよぶ。「天」とは、時間と空間が無限にひろがる「天網恢恢疎にして漏らさず」の宇宙観、自然観、観想である。

 

○わたしは、自分に与えられた生命を自分の所有とは考えない。生命は「天」=自然からの「あずかりもの」だと考える。自分が在って生命が有るのではない。生命が在って自分が有る。この生命観が、則天去私、敬天愛人、そして人類平和の希求につながる。

 

6)老人思想 「老人意識」と「老人状態」の定義   

 ここで「老人思想」を具体的に定義する。

○「老人世代」の客観的定義

満年齢20歳を、少年/学業期と壮年/職業期の区切りとする。

満年齢60歳の還暦を、壮年/職業期と老年/終業期」の区切りとする。

満年齢60歳以上の者の集合を、「老人世代」という。

老人世代の人間像を、「未老人―老人―熟老人」の属性によって合成する。

この定義は、「潜在性―可能性―実現性」という枠組みからみたとき、60歳を起点として「老人に成る」潜在性が、「老人に成る」可能性に転化し点火するという思想である。

この定義は、「在る→為す→成る」という枠組みからみたとき、少壮老/人生三毛作の60歳からの人生街道である「未老人→老人→熟老人」の入り口とする思想である。

還暦すぎたら「老人」に「成る」訓練を「為す」。「為す」ことによって老人に「成る」可能性がたかくなるという意味である。人は、老人に「成る」訓練を為さざれば、「未老人」のまま死ぬことを意味する。

この人間観は、人間の「本質」を「在る」状態で固定的に定義する思想ではない。

生まれたばかりの生命体は、幼児に成る。幼児は子どもに成る。子どもは大人に成る。大人は親に成る。親は祖父母に成る。祖父母は死人に成る。(仏に成るか、神に成るか、天国人に成るか、灰人、餓鬼、畜生に成るかは、ひとそれぞれの考え方。)

この人間観は、人間の一生を{在る→為す→成る}の循環とみなす運動論的人間観である。不易流行、万物流転、無常の自然観がその基礎にある。

しかし、現代の社会思想には、大人に成る、親に成る、祖父母に成る、死人になるという「成る」訓練思想が、あまりに希薄なのではなかろうか。

 

○老人意識の主観的な定義

私:老人思想とは、老年/終業期を自覚して老後を生きる人生観である。

ⅰ.自らの身心頭が、年とともに老化することを自然現象だと受け入れる意識

ⅱ.「立つ鳥跡を濁さず」の心境で、「この世の後始末」に責任感をもつ意識

ⅲ.自分は、いずれ死ぬであろうと「死の意味」に向きあう意識

 

○老人意識の主観的な三段階評価 

自分は、「老人である」という意識を、つぎの三つの属性から自己評価する。このレベルは、老人に「成る」達成度を意味する。

「未老人」・・・・・老人意識をもたない、もちたくないレベル
      「自分が死ぬ」ことを意識しないで生き続ける。

「老人」 ・・・・・自らの老人意識を自問しながら成熟にむかうレベル
      所持品と社会関係の処分を楽しみながら生きる。

「熟老人」・・・・・自らの老人意識を確立している達観レベル

      自らの死への姿勢を家族、身辺者に納得してもらって生きる。

「熟老人」の理想像は、「身体自己+生活自己+了解自己」をバランスよく「縮退」させながら円満に統合する生き方=円熟である。人生の不幸は、「身体自己*生活自己*了解自己」の統合失調=アンバランスである。

人生の最終目標は、「自分の人生は、まあまあ、これでよかった」と納得して死を受け入れることである。その目標にむかう老人思想は、人生観、敬老思想、人権思想、敬天思想の四つで構成される。

老人意識の三段階評価のレベル分けは、すべての老人を三つの集合に区分けするものではない。ひとりの老人の老人意識の程度を、三つのレベルで評価する三次元空間の概念図である。自分の老人像を、三つのレベル属性によって直感的に自己評価する道具である。それぞれの属性は、0.0から01.0までの値をもつ。三つの属性値合計を1.0とする。

ちなみに自分の自己評価は、ざっくりと、いまのところつぎのようになろうか。

・「未老人」意識程度 = 0.0

・「老人」意識程度  = 0.7

・「熟老人」意識程度 = 0.3

 

○老人状態の意味 

老人状態とは、個人と社会の境界・縁の状態つまり「老人は社会とどのように関係するか」について、「私」と「共」、「公」の関係性を定義する概念である。主観と客観の合意概念。

関係性は、「個人から社会にむかう関係、因果の能動的縁」と「社会からわたしにむかう関係、因果の受動的縁」により構成される。この関係性は、社会的な場におけるつぎの意識の合成である。老人状態とは、この合成=老人思想の実践的な観察可能事象である。

◆自分が、「老人として」社会に参加する意識 

・私→共 地域コミュニティ=マンション団地自治会にどのように参加するか。

・私→公 老人福祉制度の権利と義務をどのように実行するか。

・私→天 自然な死を迎えるにはどうしたらいいか。

天:老人思想とは、個人が自然な死を従容として受け入れる敬天思想である。

◆社会が、わたしを「老人である」とみなす意識

・私←共 地域コミュニティから自分への「老人としての措置」をどう受けとめるか。

共:老人思想とは、地域コミュニティが老人を敬愛する敬老思想である。

  ・私←公 国家の制度から自分への「老人としての措置」をどう受けとめるか。

公:老人思想とは、国家が老人に安心して生活できる環境を提供する人権思想である。

 

○老人福祉政策の設計と評価

この「老人状態」の観察評価が、老人福祉政策の根幹となる。公から私への「公」老人福祉政策が、それぞれの「私」老人意識にどの程度マッチしているかという評価の仕組みである。「私」の需要に、社会の「公」と「共」が供給するという関係性の評価である。

これまでの老人福祉政策は、長命社会の多様な高齢者像とミスマッチであると指摘されている。そこで、評価のための「老人状態」の観察指標が必要となる。

「わたしは老人である」という内部意識は、だれにも観察できない。その意識は、ⅱ)境界における相互作用の実情を外部から観察するしかない。観察できる状態は、「内部の老人意識」と「外部の老人福祉政策」とが相互作用する現象の発現状態である。

潜在的な老人意識が、老人福祉政策の措置を意識することによって、可能性に転化し、そして他の諸条件の偶然性にも影響されて、老人状態が現実に表出する。わたしの老人意識という潜在性が、外部環境の老人福祉政策の措置を知覚、意識、対応しなければ、老人福祉政策は観察できず、評価できないのである。

この思考法をシステム論的な枠組みで図示すれば、つぎのようになる。

●{内部意識←為す→外部条件}→観察状態→→変化{内部意識、外部条件}

 観察できる老人であるわたしの内部意識は、外部条件に反応できる可能性状態の一部にすぎない。その身心頭の可能性状態は、わたしの老人意識という潜在性状態の一部にすぎない。

 つまり老人福祉政策という外部条件「公」とわたしの老人意識「私」との相互関係の観察状態は、実現性←可能性←散在性という構造において、きわめて限定的であることに留意しなければならない。

ここに公平原則=無情にもとづく「公」の老人福祉政策(顔の見えない行政の縦割り制度)の本質的な限界がある。だから「公」の原理とは異なる「共」の思想(顔の見える直接的な人間関係)=人情を必要とするのである。

 

○老人状態の指標

老人状態を、生命力/身心頭のはたらきである三つの自己=身体自己+生活自己+了解自己の視点から指標を定義する。

a.身体自己
a1.身心頭の健康―病気

b.生活自己
b1.日常生活の自立―要支援 

 b2.生活費の自足―不足 

 b3.社会参加―隠居独居 

c.了解自己

c1.老人意識   ・・・・「未老人」、「老人」、「熟老人」

c2.老人福祉制度 ・・・・順応、批判、提案

この指標は、あくまでも概念論である。介護保険制度では、要介護度のレベルが1~5まで定義されている。ケアマネージャが、ケアプランを作成するときのマニュアルもある。生活保護法もある。この指標は、実践的にはさらに細分化されなければならない。

この指標は、老人思想をかたる理論的な枠組みにすぎない。その意義をつぎに説明する。

 

老人状態の指標を定義する意義

わたしは、主観的に自分の状態を評価して、「共」と「公」にたいして何かを要求する。「共」と「公」は、「社会から個人へ」の視点から、その個人の老人状態を評価する。

「公」は、個人が支援を要求しなくとも、基本的人権保護義務として「支援が必要だ」と評価するかもしれない。「共」は、人情、絆の心情から「支援しましょうか」と申し出るかもしれない。しかし、わたしが支援を要求しても、「自立可能、支援は不要だ」と評価されるかもしれない。

ここで「私」と「公」の関係を形式的に組み合わせればつぎのようになる。

 私;要求する ・・・・①・・・・公:対応する   <==税金と保険料

私;要求する ・・・・②・・・・公:対応しない  <==借金、次世代へのツケの限界

私;要求しない・・・・③・・・・公:対応する   <==基本的人権、生存権

私;要求しない・・・・④・・・・公:対応しない  <==在宅介護、地域互助、敬老思想

どの老人も、老人意識と老人状態、、自立程度、社会参加程度、隠居程度、要支援程度、身心頭の統合能力程度、生活能力程度、権利主張程度、感謝表現能力程度などなど多様な視点からの属性を評価できる。そして、ひとりひとりの老人は、それらの属性の「値」がちがう。

われわれは皆、程度の異なる「痴呆」である」という大井玄氏の発言は、まったくもって至言である。わたしもすでに「痴呆」がはじまっているかもしれないが、まだ支援を必要とする程度ではないだけである。

 

そして、我が老人思想は、人間として自然な痴呆の進行をむりに抑制する措置を受け入れない。痴呆の自然な進行にまかせればよい。それは生命力に替わる「死命力」(アポトーシス)の自律性だと受けとめる。不自然な作為をこばみし、無為をよしとする人生観である。

70歳すぎたわたしにとって、医療の目的は、身体の鎮痛・鎮静・平穏であり治癒ではない。介護をしてもらう目的は、不安と羞恥の除去でありリハビリではない。

「公」国家の老人福祉政策は、「公」の視点=人権尊重からの要介護判定の基準提示だけでは一面的すぎる、ということを主張したいのである。「老人福祉」は、それぞれの老人の多次元空間上の位置=老人状態と老人意識に応じたものでなければならない。

そして、ひとり一人に固有な老人状態を正当に評価できるのは、まず身辺にいる家族である。そのつぎは、周辺に住む地域コミュニティの隣人たちである(ハズ)である。最後が、国家による公的な診断=セイフティネットとなる(べきである)。

今後の老人福祉政策が、自助―共助―公助」の統合であることは明らかであろう。だからこそ「自助」=老人思想と「共助、互助、近所力」=地域コミュニティ、自治会=共生思想+敬老思想および「公助」=人権思想が、根本的に問いなおされなければならない。

 

7)老人福祉政策への提案

これまで検討してきた老人思想をふまえて、現在の老人福祉法の目的と基本的理念へ、つぎのように対案を提示する。  

(目的) 第一条

 この法律は、老人の福祉に関する原理を明らかにするとともに、老人に対し、その心身の健康の保持及び生活の安定のために必要な措置講じ、もつて老人の福祉を図ることを目的とする。

対案==>その身心頭の老化をうけとめるために必要な措置

(基本的理念) 第三条

 老人は、老齢に伴つて生ずる心身の変化を自覚して、常に心身の健康を保持し又は、その知識と経験を活用して、社会的活動に参加するように努めるものとする。

対案==>常に死に向きあう姿勢と思想を鍛え

      地域社会において学業期の青少年を応援し、社会教育をおこなう

 

内閣府が公示した「高齢社会対策の基本的在り方等に関する検討会報告書(案)は、つぎのように述べる。  

今後は、これまでの「人生65 年時代」を前提とした高齢者の捉え方についての意識改革をはじめ、働き方や社会参加、地域におけるコミュニティや生活環境の在り方、高齢期に向けた備え等の仕組について、次世代を含めた循環も考慮しつつ、これからの「人生90 年時代」を前提とした仕組に転換していかねばならない。

65 歳以上の者の捉え方に対する国民の意識変革が不可欠、それに向けた啓発

○若年者も含めた国民が、人生90 年時代に向けた人生設計を描き始めること

○現役時代から高齢期に備えて何かしら準備が必要

○若年期から自らの高齢期をいかに過ごすか、それに備えて周到に準備しておく

○超高齢社会に対する若・中年者の過度な不安感、負担感を払拭していく

○全ての世代が積極的に参画する世代間及び世代内の「互助」の精神が求められる

○「自助:自己力」を進める大前提として、共助や公助の制度の確立~協働の概念

○顔の見える助け合いである「互助」を再構築する~「地域力」、「仲間力」を高める

○世代間の交流を通じた若者や子育て世代とのつながりを醸成する

○子どもや若者が高齢者にITを教えるといった世代間交流

○多くの国民が、高齢社会についての客観的かつ総合的な知識を取得できるよう、教育や学習の機会の提供を進める

○高齢期を希望に満ちた人生の円熟期とする~楽しく豊かで円熟した人生モデルの提供

○全世代が地域社会において、人生の終わり方について考える

○引き続き中長期的課題として国民的議論を深め、合意形成をしていく

この報告書(案)のなかで、特に「互助」によるコミュニティの再構築と 若年期からの「人生90 年時代」への備えと世代循環の実現に着目する。そして、「現行の高齢社会対策大綱の基で講じられた施策」のうちの「(3)学習・社会参加、生涯学習社会の形成」の一環として、以下の内容の「老成義務教育」の制度設計を提案する。

 

(1)壮年世代向け

・高齢期への準備と自己啓発、人生設計

・新たな敬老思想と社会保障負担の倫理

・仕事と生活のバランス、世代間交流

・新しい公共~自治会、町内会など地域コミュニティへの参加

 

(2)老人世代向け

 ・人生論/人生三毛作と老人意識~高齢者の意識改革

 ・新たな敬老思想、世代間格差、次世代へのツケ、倫理

 ・支える側の老人意識

 ・支えられる側の老人意識

・新しい公共~自治会、町内会など地域コミュニティへの参加

 ・少/学業期の支援、バウチャー制奨学金の提供、社会教育

 ・コミュニティビジネスへの参加~自己力、仲間力、地域力

 ・人生の終わり方~この世の後始末、あの世への旅支度

 

(3)小中高大学生向け

・世代間交流 ~家庭教育、学校教育、青少年教育以外の社会教育

・新しい公共~自治会、町内会など地域コミュニティへの参加

 ・敬老思想

 

8)参考資料 ~老人福祉施設の需要と供給のギャップ(2013年度)

○特養 特別養護老人ホーム
 施設数は、約8千カ所。自宅での生活が難しい老人向け。退所理由の73%が死亡。終の棲家になる人がおおい。入居を待つ老人は約52万人。在所平均期間は約4年。

○老健 介護老人保健施設

施設数は、約4千カ所。無料で入れる老人病院の代替施設。在宅への復帰をめざす回復治療。医師が3か月ごとに退所の判断をする。老健施設を入所と退所をくりかえす「老健わたり」老人もおおい。「平均年齢は80歳をこえる。在所平均期間は約1年。退所先の41%は老人病院、自宅は32%。

○「在宅復帰」をうながす厚労省の「老健の次の行先の希望調査」(2014年11月)

本人

・意思表示が困難、希望なし・・・・・37% <==認知症であろうか?

・このまま老健     ・・・・・・・24%

・自宅         ・・・・・・23% <==家族の介護能力とのギャップ!!

・特養         ・・・・・・6%

家族

・このまま老健     ・・・・・・・・51%

・特養         ・・・・・・・・34%

・自宅         ・・・・・・・・4% <==本人の希望とのギャップ!!

 

「自宅」介護について本人の希望と家族の実情とのギャップは、あまりにおおきく、悲しい社会ではないか。人類がこれまで経験したことのない「未曽有の超高齢化社会・少子社会・人口減少社会」である。

人権思想にもとづく「公助」だけの限界は、はっきりしてきた。自助および共助・互助との分担が要請される。その制度設計には、歴史的な思想革命を必要とするであろう。

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