.4 幸福を感じる了解自己の修練

1)日々是好日

2)世間の観察 ~テレビをみる、新聞をよむ

3)規範の空虚観→「老人倫理」への問題意識→了解自己の欲望

4)「了解自己」の欲望

5)生活システム ~{在る→為す→成る}

6)WillCanMustの関連性

7)Must規範の三次元

8)少壮老のMust規範の修練

9)まとめ 気分→考察→新たな価値観へ

 

 幸福感を疎外する現代社会の特徴を、過剰な合理性と倫理性の劣化とした。その事象を、日々の生活における自然環境および人間関係の間接化とした。

だから幸福をもとめる思想性は、自然環境および人間関係における間接性から直接性への価値転換とあらたな社会思想でなければならない。

ここでは、老人世代の新たな価値観と新たな社会参加を考える。その問題意識の根底には、現代社会に起きているさまざまな事象に「不自然さ」を感じる倫理的な気分がある。

その気分から出発して、老人世代の新たな価値観と新たな社会参加にむかう了解自己の修練について述べる。

 

1)日々是好日 

わたしは、この世に生まれ出てからずっと止まることなく、ある時間、ある場所で、身体を動かし、心で感じ、頭を使って、生きてきた。身心頭をはたらかせ、少壮老をへて、ご臨終の時までのその連続が、衣食住を必須とする「生命が生きる」わたしの生活である。

身心頭は、私共公の社会的諸関係で身にしみた好悪、美醜、善悪、富、権力、名声などによって動かされる。惰性、習慣、常識、指導、勧誘、強制、犯罪、人情、約束、責任、義務、法律など直接的または間接的な人間関係を生きる。

日々の生活は、川が流れるがごとく、順流あり逆流あり、自然かつ偶然に、無意識かつ意識的に、作為かつ不作為に、選択の連続である。

  夜ねて朝おきて、そうして1日が始まる。昨日はかくあった。今日もかくある。明日もかくありなん。124時間、1365日。そうして少年時代の学業期と壮年時代の職業期を経て年をかさねてきた。

少壮老のそれぞれの時期で、社会的諸関係も成長→安定→退化する。

2015年現在、70歳すぎた年金くらしの自分は、日々是好日、無為に過ごしている。余生をすごす老人の終業期である。社会的な人間関係もめっきりと減らしつつある。おかげさまで我が身辺は、まことに平穏である。

暇になり、社会的責任や束縛もなくなり、ハダカの自由な個人になった感じである。社会的諸関係性から解放された純粋な個人意識、実存意識である。人生のゴールデンタイムである。

そういう隠居気分で世の中の出来事をながめている。まさしく典型的な都市生活者として、間接的な自然環境と人間関係の「縁」を生きている。

 

2)世間の観察 ~テレビをみる、新聞をよむ

わたしは、目的もなく惰性的に新聞をよみテレビをみる。間接的に社会を観察している。現場の「事実」ではなく、他人が編集した画面の映像と紙の文字をメディアとして、「現実」を眺めている。他者の目をかりた傍観者である。

隠居生活の自分にとって、直接的に体験する身辺の「事実」は、まことに単調で貧弱である。反対に間接的に知る「現実」は、報道記事としてまことに膨大である。

スポーツや芸術などの記事には、人間の偉大さに感動するときもある。しかし政治面や社会面には、「何だかおかしな世の中だなあ」、「世の中の価値基準はどこにあるのだろうか」と穏やかならざる気持ちになる記事もおおい。

世の中の出来事は、自分との関係で通常/異常、普通/例外、ありふれたこと/びっくりすることに分けられる。新聞やテレビは、日常ありふれた出来事はあまり伝えない。びっくりするほど良いことか/悪いことを主として伝える。

新聞やテレビが伝える「現実」は、膨大な「事実」のごくごく一部でしかない。人間と社会を観察できるメディアとして、ドラマ、映画、舞踊、散文、歌詞、諸芸術作品がある。これらは、「現実」をこえた「仮想現実」バーチャルリアルティである。

直接的な人間関係をめっきり減らしつつある隠居生活の「事実」のむこう側に、ぼうだいな記号情報世界が広がっている。政治、経済、社会の報道には、理不尽な記事もおおい。

そうやってぼんやりと世間という人間社会を感じながら、ときどきふと自覚的に意識を働かせるときがある。

「自分は、こんな時間のすごし方でいいのか、それで満足なのか、幸せか」と自問する場面にでくわす。{自分*縁*外側}という枠組みで、思考が「縁」の外側から内側にむかうのである。

「こんな社会で、こんな生き方で善いのか」という倫理的な自問は、「のうのうと生きながらえる」ことへの「心のどこかに疼きがある」という感じである。「老後をいかに生きるべきか」、「人間らしい老後の生き方とは」という自分への反省、自省、内省である。

往還思想は、自分を反省する自己を「了解自己」という。

 

3)規範の空虚観→「老人倫理」への問題意識→了解自己の欲望

この反省は、「いつまでも生き続ける」という生命の自律的な衝動を否定して「早く死にたい」という思いではさらさらない。生きることに悩みは感じない。不条理な塵芥俗世への嫌悪感は、すこしはあるが、生きることへの不安はない。むしろ自然の生命力を賛歌する気持ちがつよい。

  老後をすごしながら感じる「心の疼き」は、長命社会の医療・看護・介護・介助にまつわる記事におおきく反応する。生命観、人間論、老人観などの視点から、高齢化社会の現実に根源的な違和感、非自然さ、不条理を感じる。(☆福島の原発事故の後始末や沖縄への基地おしつけも「おかしいなあ」とおもう。

こんな日本社会のなかで、個人的には心配ごともなく、安穏として「生きながらえる」ことに、「なんとなく落ち着かないなあ」という気持ちをいだくのである。

その意識は、自由な身心頭の欲望を「自制」する制約や義務や責任という意味での「社会的規範」の空虚観にかかわる。

気ままなに自由にすごせる生活環境にある自分の「落ち着かなさ」の感じ=心から幸福感を感じない気分を、社会的規範意識に転化する。ぜいたくな観念論かもしれないけれど、この気分が、倫理的な関心につながるのである。

つまり、幸福を求める「老人倫理」への問題意識である。それは、「世代間倫理」と「老人の社会的責任論」につながる。 この気分は、こんな社会で老後をすごす自分への「了解自己」の欲望というしかない。

 

4)「了解自己」の欲望

 三つの自分=身体自己*生活自己*了解自己

●身体自己  

生物学的なひとつの個体、生命の自律性で生死する。

自分の身心頭は年相応にホドホド老化している。

「身体自己」の欲望は、心身頭の自律的な本能である。

●生活自己 

 衣食住のための社会的な関係性、子供→成人→老人として生きる人間。

 老妻とふたりで自立して生活できている。

 「生活自己」の欲望は、社会的諸関係性における状況選択的な欲望である。

●了解自己

 身体自己と生活自己を観察する超越者、無限を見渡す超眼機能をもつ人間。

 高齢化社会の幸福を求める「老人倫理」を考える。

「了解自己」の欲望は、身心頭の欲望を協調させて自分が納得する満足感である。

「了解自己」は、自分*縁*外部という図式において、超越者として無限を見渡せる視座=(心眼+超眼)から、自分がそこに内在して活きる生活世界という全体、宇宙、自然を、了解・自得・悟りたい欲望である。

 

5)生活システム ~{在る→為す→成る}

了解自己は、自分の幸福な人生を追い求める。幸福は、身心頭の欲望の協調的な実現である。自分の「身心頭」が作動する生活をシステムとみなせば、自分*縁*外部の図式は、つぎのように拡張される。

◆自分:内部構造→境界条件*縁*→選択的作動→機能、影響、効果

生活システムの内部 =構造(身心頭) + 作動(Will欲望Can能力Must規範) 

生活システムの境界・縁 =他者 + 自然  + 記号情報 + 人工物装置

生活システムの外部環境=境界に接する外部空間、森羅万象、時空間、無限世界、 

 この等式は、以下のような意味である。

   無限世界

わたしの外部に無限にひろがる宇宙、自然、人類社会、国家、他者などを想定する。

  縁:境界 

その外部世界の「縁」を通して、わたしは外部とコミュニケーション・相互関係する。

  入力・・・刺激、知覚

わたしは、境界に発生する事象の一部にのみ選択的に知覚する。局所性。

  出力・・・反応、表現

わたしの身心頭は、境界領域において外部世界に一定の影響をおよぼす。わたしは、境界および全体世界への影響のすべてを知ることはできない。不覚知性。

  構造

個体である「わたし」は、「命」に動かされる身心頭の構造物である。西洋流の「心身二元論」や「身体と精神」の二元論ではなく、精神を「心」と「頭」に分ける「身心頭三元論」とする。

   作動 

身心頭の作動は、DNAに規定されて自律性―習慣性―意志性という三相でうごく。

自律性は、わたしの意志に関係なく作動する本能、深層のはたらきである。

習慣性は、意識が潜在化した無自覚なはたらきである。

意志性は、内在的欲望の自発性だけでなく、他者からの誘導、教唆、強制などへの順応や抵抗などの志向性にもとづくはたらきである。

この意志的作動を、Will=意志,Can=能力,Must=規範の合成とみなす。「いま、ここ」に「在る」境界状況において、身心頭のWill,Can,Mustが作動し、身心頭に内在する潜在性と可能性が、実現性に転換する。

  生活 在る→為す→成る

衣食住の欲求を基本とする身心頭の作動の連続が、人の生活である。その生活行動は、誕生から消滅までの間で反復する{在る→為す→成る→在る}の運動である。

◆「為す」=①自発―②習慣―③意志(*他者関係)

◆「在る→為す」:

身心頭の内面活動、「縁」の外側に変化をもたらさない作動。自律性、無為自然、柳に風、在るがまま。自ずから然り。まったりとした自由自在。

◆「為す→成る」:

体験、記憶、修練などによる身心頭の構造変化、人格形成と境界、外部世界へ影響、変化をおよぼす作動。成長努力。
 たとえば、誕生→嬰児→乳児→幼児→園児→学童→小中高生→青少年→成人→大人。

6)WillCanMustの関連性

生命が動かす人の身心頭には、DNAの遺伝子情報に規定される無限ともいえるさまざま欲望が潜在している。「いま、ここ」にいる自分の「在る」状態と外部の状況との関係を契機にして、その潜在する欲望たちの一部に選択的にスイッチが入る。

知覚できる限りの現実の状況に対応して、自己を維持するための欲望選択の作動が、身心頭に沸き起こる。

それは、①生命の本能的な衝動、②習慣的な無意識の行動、そして③意志の選択を要する思考などの包括的な働きである。その働きの停止が、生命体の死にほかならない。

  生命を維持しようとする志向的な意志から「~~を、しよう」、「~~を、しない」、「~~を、するしかない」などの実践への動機がうまれる。意欲、志向性というWillである。

人は、理想、夢想、空想、幻想、奇想、構想、希望、願望など好きなようにWillできる。Willは、気持ちの欲望である。

しかし、人は、「Will;したいこと」が、何でも現実社会において「Can;できる」わけではない。人のwillは、「実現できることしかできない」という厳然たるCan能力、器量、実現性の壁の前で立ち止まる。Canは、身体の能力限界である。

人は、水面を歩けないけれど、歩く姿は想像できる。世の中の物事についても、言葉で解釈や評論や理念や理論は、いくらでも構成できる。しかし身体の動きを必然とする現実の時空間における具体的な実践は、理論どおりにはいかない。

解釈する人間はおおく、変革する人間はすくない。傍観者としての解釈だけの「実践」であっても、「頭」の欲望は満足するからである。人間の「知」と「行」の間には、おおきな隔たりがある。

Can領域は、Will領域よりもはるかに小さい。Willという意志の実践は、Canという能力に大きく制約される。Can能力は、{在る→為す→成る」の反復において成長し劣化しながら制約限界をつくりだす。

Must規範とは、Wiill欲望/潜在性とCan能力/可能性を抑制する意志であり、実現性への制約である。

Wiill欲望/潜在性→Can能力/可能性→Must規範/実現性

 

7)Must規範の三次元

Must規範の一義的な制約は、身体能力の「Can;できる/できない」である。「身」の構造が有する作動能力の限界である。この能力は、訓練によって向上する。しかし少壮老の人生ステージの成長→安定→老化は、避けることのできない自律性の能力限界である。

二義的な制約は、人に備わる生得の良心である。「心」=気持ちである。この気持が、好悪、真偽、善悪、美醜に関する無意識の判断と行動を規制する。その自発的な制約が、倫理道徳を構成する。

「したい/したくない」という欲を規制する「すべき/すべきでない」という規範である。この能力は、少壮老の人生ステージの修練によって人格を形成する。

そして、第三義の制約が、生活システムの縁*境界条件である。生活システムの外部環境との関係において、「Can;できる/できない」の実現性が束縛される。日々の日常生活は、多くの制約条件に囲まれた「境界」を通じて営まれる。その境界との外部的関係性においてMust規範が発現する。

  第三義の規範には、自分が制御できない自然環境の法則もある。多くの社会施設などの人工物装置もある。歴史の積み重ねの慣習や無意識の伝統文化もある。

人の社会的実践は、他者との人間関係や制度や法律や慣習などの力関係=強制=支配/被支配にも従わざるをえない。

社会制度には、正義や公平性など何らかの正当性と正統性の根拠が求められる。正当性の根拠を倫理とよぶ。正統性の根拠が、政治であり法律である。

「了解自己」の欲望は、「人の生き方、社会の在り方」の正当性と正統性を理解したい、納得したい、了解したいことに向けられる。

理解の「理」は、整理の「理」、論理の「理」、理論の「理」、心理の「理」、条理の「理」、情理の「理」、道理の「理」、倫理の「理」、「天理」の「理」、理想の「理」などなどに重なる。

Must規範を構成する「理」は、多義的である。だから難しい。倫理については、4章であらためて整理する。

 

8)少壮老のMust規範の修練   

「すべき/べからず」というMust規範は、①内;個人の身心頭に固有の自己規制と②外;生活境界において強制される外部制約の両面で構成される。

「Canできる」ようになる修練は、この両面におけるMust規範への適応、順応、克服である。その修練は、少壮老の人生三毛作の位相において異なる。少壮老においてWill,Can、Mustの力点がずれる。

少においては、Will希望に価値がある。その規範は、生来の性格を基に家庭の躾、学校および地域社会の教育を通して涵養される。「少にして学べば、壮にして為すことあり。」

壮においては、Can生活能力に価値がある。その規範は、仕事を中心にした社会生活の人間関係を通して涵養される。その涵養の程度に応じて、それぞれの個人の人生において経験が体内化される。それが、その人なりの社会常識や良心や地位を形づくる。

その修練が、人格形成である。生まれながらにして在る状態が成長して、人格者に成る。実践におけるMust制約に関する自覚的な意識が、倫理・道徳の面から修養・修練とみなされる。「壮にして学べば、老にして衰えず。」

往還思想は、各世代が修養すべき価値観の比重、高低、大小をつぎのようにすべきだと考える。

権利的価値 合理的価値 倫理的価値

少  ◎    △     ○ ・・・・子供は、権利を主張すればよい。

壮  ○    ◎     △ ・・・・仕事の遂行は、合理的でなければならない。

老  △    ○     ◎ ・・・・老人は、倫理的であるべきだ。

では、老における「倫理的」とは、いかなることを「為す」修練か?

その修練目標は、Must規範である①内面規制と②外部強制の一体化である。とりあえずの結論は、つぎの図式の老人倫理の修練である。

Can身体能力の低下→Will欲を減らす→Must自然の受容→希望的諦観

◆身心頭/Will, CanMust,の統合→了解自己の幸福感→無為自然、則天去私、敬天愛人

 

9)まとめ 気分→考察→新たな価値観へ

人間の身心頭は、肉眼、心眼、超眼という三つの「眼」=「みる」はたらきをもつ。「みる」にも、見る、観る、診る、視る、看るなどの様態がある。

肉眼:

「身」の眼は、自分の眼をみることはできない。自分の眼は、前方をみるだけで、自分の背中の後方はみることができない。人は、それぞれの時の場所や立場、時処位から、それぞれちがった方向をみる。

心眼:

「心」は、直感的に全体をみる。言語化以前および言語化以後の心象風景をみる。自分の内面の奥底をみる。自分の奥底は生命である。心眼が、生命の奥底をどこまでも見ようとすれば、人智をこえた無限という極限の「天」にいたる。

超眼:

「頭」は、志向性のまなざしをもって遠近の焦点をあわせてみる。「頭」は、自分をこえて世界を分析的にみる。世界を部分に分割して総合する。自分もその世界の一部である。

「頭」は、意識現象を、①焦点を合わせた領域、②その周辺領域境界、③その背景外側の世界全体という三つに分割する。

①対象、②縁・境界、③環境の三相に区別するシステム思考法は、自分から外側にむかって身辺、周辺、外縁をこえて世界全体をみる。肉眼をこえて、人智をこえて、世界の果てをみる「頭」のはたらきを「超眼」とよぶ。

超眼が、外部世界の果てをどこまでも見ようとすれば、人智をこえた無限という極限の「天」にいたる。

ここで、内側をみる心眼と外側をみる超眼が、「天」において出会い合一する。「心」と「頭」が一体化する。

かくして了解自己は、身心頭/肉眼―心眼―超眼の分裂を協調させながら、自分を「落ち着かせて」納得し安心する自己暗示の境地にいたる。その修練が、未老人→老人→熟老人への「在る→為す→成る」の運動である。

「熟老人」の心境が、無為自然、則天去私、敬天愛人のイメージにつながる。

了解自己が発動する契機は、あいまいで、よく分からない自分の「何となく落ち着かない気分」である。

その気分にこだわることが、「心」的観想を「頭」的観察へ転化させる。その観察は、考察の言語に転化する。考察から思想へ、思想から実践へという理性のはらきがつづく。

これが、カオス*ソフト*ハード=カオソフードな了解自己の思考法である。

ここでは、幸福をもとめて、自然環境と人間関係における間接性から直接性への価値転換とあらたな社会実践にむかう了解自己の修練、思考法を整理した。

老後をすごす気分→考察→老人世代の新たな価値観→新たな社会参加→医療・看護・介護・介助における価値観の変革を、さらに考えていく。

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