3.3 幸福感をもたらす四つの関係性とその疎外状況

1)現代社会を生きる合理性(頭)と倫理性(心)のギャップと閉塞感

2)幸福をめざす往還思想と共生思想の展開予定 

3)幸福感をもたらす四つの関係性

4)「心の底から満足」できない現代社会の根本を問う

5)顔の見える人間関係の劣化、人間関係の間接化 

6)西欧近代思想の理念的な人間像が幸福感の障壁

7)多様な幸福感の人間の差異、多様性―→中庸の倫理

8)国家が「公共」の秩序機能を独占する間接的な人間関係―→「公共」の解体 

9)まとめ ~直接的な人間関係体験と直接的な自然環境体験の再生へ

 

1)現代社会を生きる合理性(頭)と倫理性(心)のギャップと閉塞感

現代人の生活に、合理性(頭)と倫理性(心)のギャップが拡大している。この現代社会の在り方こそが、人の幸福感を疎外している根本原因である。人としての融通無碍の自在な解放感を閉塞させている。

自由を謳歌しているはずの日本社会について、「この国には覆いがたい沈滞感がただよっている」という文言をしばしば聞く。国民を檻に入れて過保護に監視する国民国家の動物園現象である。

(☆こんなに断言することには反対もおおいだろうけど。

疎外とは、統一体である事柄の自己組織化=回帰的自己言及=自律性(オートポイエーシス)の矛盾である。

矛盾とは、根本を共有する主体の成長にともなう内在的な自己対立である。自分にたいして、自分が、よそよそしい存在になることである。

矛盾は、破壊と創造への衝動を胚胎する。矛盾が、歴史をうごかす。人間と社会の歴史は、生命体の{潜在性―可能性―実現性}をめぐって、外部環境と織りなすカオス*ソフト*ハードな絶え間ない運動の合成である。

近代西欧思想は、人類の進歩とみなされる「人間の尊厳」という普遍的な価値をたしかに創造した。その思想の実践は、研究の自由と工学技術の築盛により、たしかに現代社会に圧倒的に豊かな恩恵をもたらしている。わたしは、その恩恵をまことに人工的に享受している。便座にウォシュレット!!

だが、過ぎたるは及ばざるがごとし。

合理性と倫理性の双子を一体化するハズの近代西欧思想が、いまや現代人の生活に過剰な合理性と倫理性の劣化をもたらしている。この落差が、世界でも指折りの豊かな自由社会を生きる日本人の「心」に閉塞感、沈滞感、不安感をもたらす。

この事態をすでに次のように図式化した。

◎個人の尊厳>>○幸福>>△道徳

◎権利的価値観>>○合理的価値観>>△倫理的価値観。

往還思想は、道徳という倫理的価値観の劣化が、人が求める本当の満足感、幸福感を疎外する、考える。

この疎外状況は、つぎのように「私」と「公」の突出、「共」の不在として観察できる。

(ⅰ)国家主義・・・・「公」が「私」の領域のすみずみまで規制・お節介を強める。

        「私」が、身辺の小さなもめごとから、おおきな人災、天災まで、なんでもかんでも「公」の役所にたいして、救済の権利を主張する。

(ⅱ)仕事不安・・・・終身雇用、年功序列、企業内福祉制度などの「共」の崩壊、非正規雇用

        「絆」とは、いうけれど、「災害ユートピア」の一過性がすぎたら、「公」のハードシステム社会が規制する日常にもどる。

(ⅲ)個人主義・・・・「私」の自由と「共」の不在、孤立、分断、無縁な人間関係

        主体的自己の確立と基本的人権を主張する「強い人間」像である。

 

2)幸福をめざす往還思想と共生思想の展開予定

往還思想は、この現代社会の在り方を、疎外状況=豊かさに潜む心の闇=不安感=落ち着かない気分=閉塞感=自由に解放されていない気持ち=心からの幸福を感じさせない社会とみなす。

こういう社会的な克服を共生思想にもとめる。

では、そもそも人の幸福感は、私*縁*外部世界という図式において、どのような関係性なのか。合理性と倫理性は、どういう意味で幸福感にかかわるのか。

ここでは、人に幸福感をもたらす関係性を整理する。この整理は、幸福への不満足感をもたらす「倫理の不在」を考える序説にすぎない。

往還思想は、この序説の続きを次のように展開する予定である。

倫理不在→:身心頭の欲望→身体自己・生活自己・了解自己→少壮老の人生三毛作→:私共公天→倫理観の再生→幸福感の条件→新たな価値観→の再生→老人世代の新たな社会参加→少/老の世代間交流→熟老人への修練→成人義務教育→敬老思想→共生思想→・・・・国家論・・・→憲法改正→・・・地域コミュニティ自治会の制度化・・・→一国二制度・・・・・・→沈滞感と閉塞感の打破→身心頭が協調する満足感の「了解自己」→安心立命の則天去私、敬天愛人→希望的諦観→(☆たいへんな大言壮語ですね。

 

3)幸福感をもたらす四つの関係性

人はだれしも、幸福に生きることを望む。幸福とは、希望・快楽・平穏・愛・奉仕・感謝・安心・達成感・満足などの気持ちである。人は、その幸福な状態を維持したいと願う。

いっぽうでは、幸福を阻害する死・抑圧・差別、損傷・苦痛・不安・危害などを避けたいと願う。

◆幸福=○肯定感/良好快楽/真善美 + ×否定感/嫌邪苦痛/偽悪醜

「ああ、生きていて、よかった」という直感的な満足感。その直観は、理性も無意識も心身頭が一体となった状態の発露である。身心頭の協調統合をめざす了解自己の納得感である。

その一体感・納得感は、身心頭の満足=身体の満足*心情の満足*理性の満足の同時的かつ重層的な満足感=幸福である。

逆に身心頭の不自然な統合失調が、不安と不満をもたらす不幸である。身体が丈夫なだけで心頭が不調な認知症は、幸福とはいえない。身心頭の自然な協調/自己統一が、幸福度の基準であり人生の目標である。

  人は、自分の幸福感を得るために、この世で何かを求めて志向/希望し、何かを大事にして防御/保身し、何かを避けて逃避/反撥し、何かをめざして変革/創造する。

のその幸福は、待っていたら自然に目の前にあらわれるタナボタではない。満足を求める積極的な意志・欲求が前提になる。

その意志は、何に関係するか。どこにむかうか。

往還思想は、幸福を実現する{私*縁・外部}の枠組みにおいて、外部との関係性を四つに集約する。

まず社会的な①人間関係である。人は、両親の子としてこの世に誕生し、家族、隣人、友人、先生、同僚、上司、部下、お客など他者との社会的人間関係を生きる。社会的諸関係と人間関係への覚悟=人倫の思想性が、その人の幸福/不幸を左右する大きな要素になる。「人間とは社会的諸関係の総体である。」

だが人生の禍福は、それだけではない。つぎの関係性も幸福の度合いにおおきく影響する。

衣食住などに必要な物質的な道具、機械、施設などの②人工物関係。

心と頭の欲望や好奇心や探究心を満たす③記号情報、物語関係。

そして地球、風景、動植物などの④自然環境。

 ◆幸福感の構成 

  社会環境・・・・・・・・・・・人間間関係、社会的諸関係=時*処*位

  人工物環境・・・・・・・・衣食住、通信、交通、娯楽

  記号情報環境・・・・・・知識、文化、芸術、学問

  自然環境・・・・・・・・・・・・身体、生物、物質、地球、宇宙 

 

4)「心の底から満足」できない現代社会の根本を問う

人間の禍福にかかわる四つの外部世界=環境との関係性は、一定不変ではない。歴史的に変化してきた。その変化の原動力は、科学的研究および工学技術の知性=目的→手段選択の合理性である。

科学技術がもたらした人類の生活環境の変化を、幸福感の面からいえば、つぎの2点が決定的な変化だと考える。

直接的な人間関係の喪失-→記号情報環境の隆盛=インターネット
直接的な人間関係が、記号情報環境において、間接的な人間関係に変化した。

◆直接的な自然環境の喪失-→人工物環境の席巻=都市型生活、高層マンション 

直接的な自然環境が、科学技術の発達によって、人工物環境に変化した。

 疎外状況=「心の底から満足」できない現代社会の根本原因は、直接性の喪失、間接性の肥大である。

記号情報環境がもたらす人間関係の浮遊感、フワフワ感、仮想化、根なし草である。

人工物環境が要請する合理的なハードシステム思考の抑圧感である。

 

5)顔の見える人間関係の劣化 

現代人は、都市生活において村落共同体の価値観を捨てた。直接的な「顔の見える仲間」関係、もたれ合い関係、弱い人間どうしの相互扶助関係=頼む/頼まれる、助ける/助けられる=義理人情が衰退した。

カオスな人間どうしが生身をさらしあう直接的な人間関係の縮小・劣化である。都市生活においては、「隣の人は何する人ぞ」の個人情報保護の人間関係の間接化=制度化=「公」役所依存=ハードシステム社会化がすすむ。

人間関係の間接化とは、法治国家における社会契約の制度関係化である。またIT社会のネット媒体は、人間関係の仮想化をおしすすめる。

間接的な人間関係において、他者への気づかい、配慮、遠慮という身体表情の訓練と倫理性が後退する。基本的人権を主張する自由な言語表現の過剰、慎ましい心象表情の劣化。「公」における表現の権利と「共」における表情の配慮とのギャップである。

その挙句が、人情が閉塞し孤立感がふかまり、同調圧力の空気がひろがり、不安感、幸福感の欠如、疎外感、個人情報保護、・・・という「心の闇」現象。

 

6)西欧近代思想の理念的な人間像こそが幸福感の障壁となる

西洋流の形而上学的かつ古典的な思弁=観念倫理学では、欲望とか幸福などは、「倫理・人の道」と相反する概念であった。そこでは、欲望を抑制する節制や無欲が強調された。絶対的で超越的な価値基準としての「定言命法」などが観念された。

一神教的な規範である。

ギリシャ哲学に根を求める西洋流の思考は、人間を理念化し、均質な人間像をつくる。少壮老の人生ステージに頓着しない抽象的な人間性の観念である。少と老は、周辺においやられる成人中心の人間像である。

哲学者たちは、ホモサピエンスという人類に備わる「精神の普遍性」だけに着目してきた。身心二元論である。心と頭を一体とみなした精神論である。

精神は、理性的な意識活動である。西欧哲学は、精神=理性至上主義である。頭でっかちである。その精神論から「心」が抜け落ちる。

西欧近代思想の理念的な人間像こそが、平凡に生きる人間たちの幸福感の障壁になっている。なぜか?

その理念的な人間像は、たしかに「個人の尊厳」にもとづき、個人の自由な幸福追求を是とする。自由競争の権利を主張する「つよい」人間が登場する。幸福を実現する目的―手段を選択する合理的な価値観と能力が尊重される。

そこに自由な競争市場がうまれる。競争は、合法的な契約、ルールにしたがう。競争は、勝者と敗者をうみだす。この合法的な競争制度は、きわめて複雑である。

競争にやぶれた「私」人間は、合理的な社会保障制度を「公」国家にもとめる。

こうして、「個人の尊厳」と「社会的生存権」を根拠にして、弱者の救済を強く要求する「つよい」人間像が登場する。

自由な権利主張と合理的価値観を奉じて参加する自由競争において、勝者も敗者もいずれも「つよい」人間像である。このような人間像からは、道徳の倫理的価値観がうまれようがない。倫理観は、順法精神という法律に吸収されるからである。

だが、資本主義社会の法律は、すべからく倫理的なのか。ここは、おおきく意見の分かれるところだろう。イデオロギー論争になりやすい。

現代社会の「強く、きっちりしっかり、競争」する「私」的人間像は、往還思想の「弱く、あいまいほどほど、共生」する「共」的人間像の対極にある。

(☆すこぶる大きなテーマである。・・・>脱欧入亜

 

7)多様な幸福感の人間の差異、多様性―→中庸の倫理

カオスである生身の人間たちは、人それぞれである。均質ではない。差異の多様性である。生まれも育ちもちがう。性格も気質も体力も知能もちがう。そして、それぞれの自己満足を追求する。

幸福になるための現代社会の価値観は、自由競争で勝敗にこだわる修練・努力・勤勉である。明確な規則にもとづく自由競争における勝利こそが、国民が合意できる幸福になるための合理的な価値観となる。

トップ、一番、最初、オンリーワンなどが、ものすごく誉められる。マスコミがそれらを大きく報じる。だから人は、それに向かって競争する。

そして、競争は、かならず序列格差をつくる。我慢できる範囲の正統な不平等をうみだす。どうじに正当ではない、がまんできない、倫理的でないという不平等への軋轢、怨嗟、憎悪も生み出す。

では、「競争はやめましょう、みなさん平等です、手をつないでみんないっしょにゴールしましょう」と主張する一部の社民主義思想は、倫理的なのか、現実的なのか、人間的なのか。

往還思想は、そうは思わない。

人間平等の根拠は、生命の自律性である。身心頭の欲望追求という自然の摂理である。そこに生命の畏怖を無条件に感じる。

その畏怖は、人間のちっぽけさを感じさせる。人間のよわさを感じる。人間のはかなさを感じる。人間のけなげなさを感じる。

ここに人命の尊厳性を直感する根拠がある。弱い人間どうしの平等性を直感する。

しかし、社会的不平等は、多数の生命体が共存する場における{潜在性→可能性→実現性}に偶然性が媒介する帰結である。社会的諸関係の必然的な現象である。

世の中には、常に不平等が存在する。だから常に不平等に抵抗する運動が発芽し拡大する。そこに新たな価値観が生まれる。新たな社会参加が試行錯誤される。

そうして歴史がうごく。

人類の歴史は、理念的な人間像による人類愛の実現をめざすわけではない。人類の歴史は、人間の差異の多様性の共存である。人類の歴史は、不条理なカオスのなかをかけめぐるソフトな協調とハードな闘争の絶え間もない運動である。

とはいっても、傍若無人に自分の欲望にまかせた自分勝手な振舞いは、他者との争いをひきおこし、自分も幸福とはいえない。イカサマ賭博や詐欺で金をもうけても、良心の呵責を感じない人間は、非道徳的で下劣な人間として、その全人格が軽蔑され、承認されない。才能があっても人徳がなければ、世間の評価はひくい。理屈ばかりでは、軽蔑されるばあいもある。

それが社会の常識的で健全な道徳(モラル)、倫理(エチカ)というものであろう。

人は、社会のなかで自由気ままには生きていけない。私利私欲貪欲だけの幸福原理は、明らかに社会性に反するからである。だからといって、相手の欲望に従うだけで、自分の欲望を無理に押さえ込むのも苦痛となる。

そこで、自分の欲望実現と社会生活における自己抑制のバランス、中庸ほどほど加減が問題となる。

私(自分)―共(自分たち)―公(みんな)という社会関係における人間関係のあり方が、了解自己の倫理的なテーマとなる。

このテーマを「カオソフード」にあてはめれば、私;バラバラなカオス=自由、共;ホドホドのソフト=人情、公;キッチリしたハード=秩序という図式になる。

◆倫理的な生き方とは、共=自分たち=顔の見える仲間=ホドホドのソフト人情の人間関係性である。そこに「心から豊かな」幸福感がうまれる、と考える。

 (☆この結論に賛成しない人もおおいだろう。倫理観も幸福感も人それぞれだから。)

 

8)国家が「公共」の秩序機能を独占する間接的な人間関係 

倫理/道徳の名において、はるか古代社会から修己/正心、誠意、修身などが唱えられた。そこで鍛えるべき徳目/仁義孝礼知信などが唱えられた。

善なる人間関係/忍耐、我慢、配慮、謙譲、献身、愛などが唱えられた。釈迦の八正道/智慧、意欲、言葉、行動、生活、努力、配慮、精神統一なども唱えられた。キリスト教やイスラム教にも戒律がある。どの民族の文化にも価値観と隠避観(タブー)がある。

人は、それぞれの社会的諸関係性において、他者と共存して生きていくしかない。子ども時代においては、社会的知恵を学習し、育て、鍛えながら大人になる。少/学業期、壮/職業期、老/終業期のそれぞれの人生ステージにおいて、幸福感をもたらす価値観は、おなじではない。人間関係の在り方=社会性がおおきく変わるからである。

どの時代、どの社会/家族、共同体、組織、国家、世界にも、自らの行為をつつしむ暗黙または明示のルール/掟、作法、規範、規則、法律、信仰などが存在する。「公共」の社会秩序を維持するための有形制度および無形観念がある。

歴史的にみれば、社会的ルールの目的は、少数の上層支配者/強者が、大多数の下層中間庶民/弱者を、支配し統治し社会秩序を維持するためであった。一部の勝者が、自らの自由意志を拡大するために、大多数の弱者の自由意志を抑圧する統治/支配ルールであったと、いってもよい。

万民が平等で均質なユートピアなどは、どこにもない。「人間の尊厳、自由、人権尊重」を根本規範とする現代の日本社会でも、国民を統治する「公」である国家権力の本質は変わらない。

「人間の尊厳、自由、人権尊重」を普遍的な価値とする自由競争の資本主義国家は、その裏側に「人間の尊厳、自由、人権尊重」を理念とする社会的救済=福祉制度をそなえる。

個人の自由をベースとする民主主義国家においては、善/悪、正義/不正の倫理規範の徳目は、制度法律に明文化される。人間関係を規制する文字化/記号化/情報化である。

「公共」を独占する国家行政は、法律を「私」国民に強制し、その制度が国民の自由行動を規制する。現代社会は、社会契約という制度を媒介にした国民の顔のみえない間接的な人間関係によって秩序をたもつ。

身の丈の自然な心情/人情/常識にもとづく「顔の見える仲間」の人間関係は、日常生活においてますます希薄になる。都市生活における人間関係は、煩わしくて、うっとうしい。だから、地域コミュニティの自治会活動においても、規則をまもり、カネですます。人間関係などは不要。ボランタリーにやりたい人がやればよい。

複雑に輻輳した法律・規則と縦割り行政制度の社会システムが、おおらかで自由であるはずの人間の行動を、ますます監視し、国民の価値観と行動の管理を強化する社会になっている。国家が「公共」の秩序機能を独占する。

ソフト「共」なき、ハード「公」とカオス「私」の「公私」二階建社会である。この視点からも幸福感の閉塞状況を観察できる。

だから、いきなり結論イメージに飛躍すれば、つぎのようになる。

◆閉塞状況の突破は、「公共」の解体→「公」と「共」→新たな価値観と老人の社会参加

 

9)まとめ ~直接的な人間関係体験と直接的な自然環境体験の再生へ

人の幸福感を阻害する原因は、理念的な「つよい」人間像である。権利を主張する自由な個人主義が、現代社会の倫理性の劣化をもたらす。

倫理性劣化の根源は、近代西洋思想の理性中心主義の合理性に帰する。その合理性が、直接的な人間関係体験の劣化と直接的な自然環境体験の劣化をもたらす。

科学技術のハード思考による生活環境の合理性は、都市の高層マンション団地に典型的に実現している。

足裏に土の感触を楽しめる裸足で歩ける道はなく、自然環境から遮断されたコンクリート構造物に保護された人工物環境である。玄関の施錠ひとつで社会から断絶できるプライバシー空間である。

都市生活者たちは、ハード思考の管理システムに従属せざるをえない。マンション団地は、安全かつ清潔に管理された動物園に相似する。合理性の象徴のマンション団地コミュニティは、民主主義の法治国家の縮図でもある。だから現代社会は、国民を飼育する動物園にアナロジーできる。

そこで生活する国民は、囲われた動物のように「自由の牢獄」に居住する表情と生態を露わにする。一部の人間をのぞく大多数の庶民が、自らの身の丈を生きる欲望と幸福を追求するためには、動物園の柵に囲まれた範囲の自由しか残されていない。

自由競争を勝ち上がり、自由を謳歌できる少数の強者、または競争社会から逃走できる芸術家や隠遁生活者たちは、数%のひとにぎりである。

それでも日本は、自由で豊かな社会である。自由のない国は、地球上にまだまだおおい。身の回りの「小さな幸せ」は、諸外国にくらべてたしかに豊かにあふれている。

しかし、人間の欲にはきりがない。日本人が「自由の尊重」といっても「公共」という檻の中の程度の「自由」といってもよい。その自由意志は、全体的な空気への順応と従属へ傾斜する。

そこには解放感の「たおやかさ、おおらかさ、のびやかさ」が感じられない。そういう現代社会を、わたしは「どこかおかしいなあ」と思うのである。

現代社会は、自然および他者との直接的な体験を喪失した間接的なバーチャル社会なのだ。ハードなシステム社会を生きざるをえないもやもやとしたカオスな気分である。

自然および他者との直接的な関係の喪失こそが、人の幸福感の疎外状況である。自然および他者関係の間接性こそが、人の幸福感を阻害する「おかしな世の中」をもたらしているのだ。

だから、老人世代に期待する「新たな価値観」と「新たな社会参加」を構想するキーワードは、直接的な人間関係体験と直接的な自然環境体験という「直接性」にほかならない。

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