2.3 往還思想の生命論   

1)命はだれのものか?

2)人命尊重とはどういうことか?

3)人命尊重はゴーマンな人間中心の私利私欲ではないか? 

4)人間と社会との関係性は? 

5)「自分」とは何者なのか?

5)生きる気力はどこから出てくるか?

 

 「人命尊重」という思想が、日本人の常識になったのは戦後であろう。戦前の国家主義体制や江戸時代の封建体制では、「人命尊重」などという観念はなかった。戦後の民主主義体制においては、その反動なのかどうかわからないが、「人命は地球よりも重い」などと極端な「人命尊重」価値観になった。

これから生育していく嬰児、幼児、子ども、少年たちの生命力は、旺盛である。はたらき盛りの成人、壮年世代の生命力は、絶頂である。70年も生きてきたわたしの生命力は、下降する。では、少壮老それぞれの世代の「人命尊重」について、どう考えるか?

A: 世代に関係なく人間として平等に同じく「尊重」されるべきである。 

B: 潜在的な生命力の残存量におうじて「尊重」されるべきである。 

C: 「人命尊重」は、遺伝子操作、人工生命などの未来社会では「死語」になる。 

 

1)命はだれのものか?

「命をいただいたものは、可能な限り生きる義務がある。要介護の状態でも、自ら死を望むべきでなく、悲しい惨めと思っても、生きる気力は失ってはいけないのではないか。」という意見がある。

ここで「命をいただいたもの」、「生きる義務」、「生きる気力」という言葉に着目する。往還思想は、つぎのように考える。

   命は、だれからいただいたのか?

「あの世」、両親の両親の両親の・・・・・命の始原。自然宇宙==>「天」

   生きる義務とは?

命の自律に従う生理的義務と社会で生きる人間的義務のふたつ。

   生きる気力はどこから出てくるか? 

身心頭の欲望、衝動、喜怒哀楽、幸福感、希望、思想、理想。

 

わたしは、一定量の「生命力」をもってこの世に誕生した。生命力というエネルギーが、わたしという個体を構成する「身・心・頭」の器官をはたらかせる。このはたらきが、「生きる」という意味である。

わたしは、自分の個体を生かす「命」を自分の所有とは考えない。自分は、命に動かされる操り人形であると感じる。人間の自由とは、命の自律性の社会的現象だと考える。

◆「命」は、「身」に衣食住を求めさせる。

◆「命」は、「心」に喜怒哀楽を発現させる。

◆「命」は、「頭」に言語や図形を駆使する理性を働かせる。

寿命とは、生まれたとき「満タン」の生命力が焼え尽きることである。ガス欠、残存生命力がゼロ=寿命がくれば、身・心・頭のはたらきは停止する。

肉体を構成するさまざまな細胞たちは、それぞれに腐食し分解し、つぎの世代の生き物に再生する。自然の摂理=「天」からいただいた「生命力」というエネルギーによって、我が「身心頭」は生きる。そのエネルギーの焼尽が「死」である。

こういう観想を本質とする往還思想は、「命」=自然=天識への畏敬と畏怖が根本にある。そこから老後を生きる「希望的諦観」がでてくる。希望的諦観は、「則天去私」、「敬天愛人」に通じる。

 心眼は、自らの命の源泉をのぞき込む。その深奥に自律する生命の衝動がある。その生命のうえに我が身心頭の欲望がはたらく。命があって自分がある。自分が在るから命が有るのではない。命は、自分の私有ではない。命は、自分を超越している。

わたしは宇宙にうかぶ自分を生かす生命の神秘におどろく。さらに、生きとし生けるものすべての命の源に畏敬と畏怖をいだく。無言で頭を垂れる。

 

2)人命尊重とはどういうことか?

 ひとことで言えば、「生命力」への畏怖である。受精→誕生→成長→生殖→衰退→消滅をたどる命の自律的リズムへの畏敬である。自我、自己意識、自由意志など「ちっぽけな」人為と人智と作為の理性をこえる領域への超越的な心象である。

往還思想は、人の命を自然の律動とみなす。自然は、圧倒的に精巧で緻密な複雑性である。その驚異的な複雑性は、人智を超えた動き、はたらきである。その「はたらき」を畏怖する心象を、人命尊重とよぶ。

わたしは、そのおおいなる「命のはたらき」を想念すれば、不思議さをこえ、畏怖、荘厳、敬虔な祈り、無言のひざまずき、などの陳腐な言葉でしか表現のしようのない幻覚にひたる。その生命を宿すちっぽけなわたしの個体の寿命は有限である。必ず死ぬ。

人は、誕生から消滅までの時間を年齢で区切る。たかだか100年未満。その時間のなかで、身・心・頭は成長とともに多くの可能性を顕在化させ、そして老化と共に沈潜させる。

それぞれの人間の身・心・頭のはたらきを観察するとき、その複雑性、多様性、精密性に驚嘆するほかない。自分を生かす自然な命。あなたを生かす自然な命。みんなの人を生かす自然な命=天命。この想念が、則天去私、敬天愛人に通じる。

これが、人間みな平等の人命尊重の根本理由である。個人の自由と人権の淵源である。この意味で人命は、「A:人間として平等に同じく「尊重」されるべきである。」 

人を生かすその奥底、源泉の存在に対する畏怖の想念は、縄文・アイヌの血が流れる日本人としてのわたしの生命感というしかない。

これはキリスト教的な生命感とはちがうだろう。

 

3)人命尊重はゴーマンな人間中心の私利私欲ではないか?

  自分という自我=自意識の発生の前に「命」がある。「命」が先ずあって、後から自分が形成される。人生の「少→壮→老」におうじて、我は「無我→自我→大我」と成る。

命は、自分の身・心・頭を動かす超越性である。だから「自分の命」という言葉は、定義不能である。この考えは、「あの世」を前提にする往還思想のひとつの帰結にほかならない。             

これは、「利己的遺伝子」の考え方に近い。「利己的遺伝子」とは、遺伝子が有限な寿命しかもたない個体をつぎつぎに乗り代えながら、利己的に自己を存続させるという意味である。

遺伝子が利己的だとすれば、個体つまり個人は、祖先から子孫に遺伝子を運ぶ一時的な容器にすぎない。個人は、生命の駅伝リレーのひとつの区間の走者にすぎない。

そう考えれば、もはや世襲制や封建時代の個人を抑圧する思想と社会制度を克服した現代にあっては、個人の自由や個人の人権尊重など、その意味が変わるような気がする。

この考え方は、現代日本社会に蔓延する自己中心の私利・私欲・貪欲を恥じる気分に通じる。「じぶん、おのれ、我、自分、個人の独立、個人の自立、個人の尊重、主体性の確立などと言いなさんな」という気分になる。リベラル個人主義への批判である。

往還思想は、個人主義の自由と人権を問いなおす。政治体制の民主主義を問いなおす。 経済体制の通貨主義を問いなおす。

だが、このテーマは、「共」と「公」を対象とする「共生思想」において考えることにする。

 

さて、自然を科学的知見で征服し、個人の独立・自立を尊重する近代西欧の思想は、あくまでも「自分」、「個人」を金科玉条の価値とみなす。しかし往還思想からみれば、それは人間中心主義・自己中心主義の傲慢思想だと思う。

わたしが現にこうして生きているということは、呼吸をして酸素を肺臓に取り入れ、心臓が動き、血流を体内に循環させ、口で食物をかみくだき、飲みこみ(嚥下)、消化器で栄養を吸収し、残りを排泄し、夜がくれば眠くなり、ぐっすり睡眠し、夢をみて、そうして目をさまし、妄想し、こういう駄文を書くなどの一連の動きの連鎖である。

これらの動きの要素と連鎖は、ほとんど自律的である。つまり「自分」が意識して制御できる作動ではない。そうやって命の火(エネルギー・力)が、身・心・頭を動かしている。

  わたしの命は、植物と動物の人間以外の諸生命を食料とする。命の自律性は、食料の獲得と栄養の摂取を身体に要求する。

人の命は、他の生命を食って生きのびる。この意味で、人の命は、諸生命に君臨する超利己的な存在者である。そういう事態にアイヌ族や古代日本人は、現代日本人よりも、はるかに敬虔であったと思う。

現代日本人は、「自分の命」を錯覚して、「命」を「自分のもの」として、あまりに私利・私欲・貪欲・飽食すぎないか。個人の自由を主張する近代思想が、我が身心頭の欲望実現を目標として、その知性・理性を、ひたすら効率性、合理性、経済性にむけるありようは、倫理性や崇高性からはほど遠いのではないか。

衣食住への欲求は、命がうながす。老化にともなって命の力が弱まれば、身・心・頭の動きも衰える。老化にともなって衣食住への欲求も細る。呼吸も心臓の動きも嚥下も消化も排泄も、その動きは、退化する。命の力が衰退するからである。

それは自然な現象である。

しかし、現代日本社会では、医者と医薬が、命の力にとって代わった。自然科学と医療技術と製薬技術とそれを応用したビジネスモデルが、人体の物質的な動きを制御し、支配できるようになった。その先にまもなくアンドロイド、人造人間が誕生する。

身の丈をこえて極めて不自然な世の中になったと思う。

こういう価値観は、「いつまでも若さを保ちたい」という身体だけに突出した価値をもとめる身心頭の統合失調ではないか。

生きてはいるが、「幸せ」な生き方なのだろうか。

超高齢化の日本社会において、古希すぎた「私」が要介護の状態でも、「可能な限り生きる権利がある」と主張し、「公」が「限りなく生かし続ける義務がある」という社会思想を根本的に問いなおすべきではないだろうか。

少→壮→老の人生ステージにおける「人命尊重」は、潜在的な生命力の残存量も考慮すべきではないか。

超高齢化社会を生きて逝く死生観を鍛えなければならないと思う。

 

4)人間と社会との関係性は?  

人、人間、人類などの漢字は、それぞれ日本でいつごろから使われはじめたのだろうか。人を指示することばにつぎのものがある。

私 自分、生命で動かされる身心頭で構成される個人・・・・1個の存在

 員 「共」の資格属性を共有する個人・・・・会員、社員、隊員、団員、などの仲間

 民 「公」の統制に服する個人・・・・・臣民、人民、国民、市民、住民など

 人 「天」から見た生物の一種=人類、人種・・・・日本人、黄色人、現代人

わたしは、これらの言葉をいつ教わったのだろうか。

まず自分を目の前の犬や馬とちがう生物として認識しただろう。自分は、両親や兄や姉やとなりのおじさんやおばさんと同じ「人」なのだ、その「人」たちをまとめて「人間」というのだと教わっただろう。

そして、「仲間」とは、ある物事をいっしょにする身近で顔の見える人たち、行動を共にする集団の構成員、「自分たち」のことだと知った。

さらに「みんな」の人を「国民」といい、自分は日本人であることを知った。

また、植物や動物などたくさんの生物を分類する系統図があることを理科(生物学)で教わり、そこで「人間」を「人類、ホモ・サピエンス」というのだと教わった。

人類が誕生したのは、46億年の地球の歴史の中で、20万年前のことだということも学んだ。さらに、宇宙、地球、生物、人類、人間を創造し、支配する「天」、お天道様、西欧では神様、自然=神の摂理、天恵、天罰、天災、天意などという言葉も教わった。

そこで70歳をすぎてあらためて「人間である自分とは何者なのか?」と自問する。この問いは、{自分*縁*環境}の図式における外側=社会への志向である。往還思想は、人間と社会との関係性を「私共公天」の枠組で考える。

「私」は、自分という個体である。

「共」は、「自分たち」仲間どうしの人間関係の共同体である。

「公」は、「みんな」の世間を支配する国家である。

「天」は、「私」と「共」と「公」のすべてに君臨する「お天道様」である。

個人を主体とする近代思想が登場するまえの時代、哲学者が「人」とか「人間」という概念は、ホモ・サピエンスという人類の「内包」を意味するものではなかった。

個体としての「人の内側」ではなく、人と人との「縁」=関係性においてである。その関係性は、人権思想なき「公;治める→私;治められる」という「強者と弱者」、「支配と従属」という縦型上下構造であった。

近代思想は、その上下構造の「私」国民と「公」国家の関係を主権在民の民主主義体制に転覆した。「支配と従属」関係を、人権思想による「私;支えられるー公;支える」に逆転した。

ここに超高齢化社会の「老人問題」が胚胎したのである。

 

5)「自分」とは何者なのか? 

わたしの名前は、勝郎という。誕生日は、19439月xx日である。昭和18年の日本は、中国や東南アジアや太平洋の各地で英米露などを敵として、敗戦が濃厚な戦争中。そのさ中に生まれた男の子の名前には、「戦争に勝つ、敵を征伐する」の願いをこめて勝、克、征などの字がおおい。

自分の名前が、勝郎だと自覚したのはいつからだろうか。

小学校の入学準備として「名前を呼ばれたらハイと返事をしなさい」と教わったはずだ。だから自分には名前があるということを知ったのは小学校に入る前だろう。赤ちゃんのときには、カツロウと呼ばれてもそれに反応しない時期もあっただろう。いつからカツロウという呼びかけに反応するようになったかは自分の記憶にない。

そもそも自分が「ひとりの人間として自分である」という事実を、いつどうやって知るようになったのか。いつから「自分」という存在=自我を自分は意識するようになったのか。

その時期は、母親や家族や他者たちに囲まれて育つ過程のどこかではあるだろうが、「自分を発見」した最初の体験は自分の記憶にない。

「自分を発見」する前の状態は、我と汝の区別は意識しない無我である。

無我状態において、すでに身体はそこにあった。喜怒哀楽をうみだす身・心の働きはあった。しかしそれを意識的に対象化したのは、もっと後である。

自我の意識よりも前に、母親を通して他者の存在・他我・汝の意識が発達するという学説がある。他者と向き合うことによって、自我を発見するという説。わたしは、自分の経験をふまえてその説に直感的に賛同する。

  わたしは自分が、「生まれた」、「誕生した」、「この世に生をうけた」という事実のその生の瞬間を体験した記憶はない。喜んで生まれてきたのか、心配や不安を持ちながら生まれてきたのか、何の考えも意識も感動もなく生まれてきたのか、ただ単にポコッとひとつの肉の塊りが出現しただけなのか、自分ではいっさい分からない。生まれてどのような泣きかたをしたのか、もちろん記憶にない。

泣くといえば、仏教に「生老病死」という言葉がある。四苦である。生が苦であるという考え方である。赤ちゃんは泣いて生まれてくる。それは、この世に生を受けた苦のはじまりを泣く、ということのようだ。

わたしは、自分の生を「苦である」と考えたから泣いたわけではもちろんないだろう。逆にまた、母親にあやされて笑顔になったかもしれない。それは愛されて気持ちよいという心境なのかもしれないが、もちろんそんな心の動きを意識していたわけではなかろう。

ここで言いたいことは、「自分」を自覚するよりも前にすでに自分の「個体」が存在していた。その固体には、「身・心」の動きが備わっていた。それを「自分」だと意識する「頭」は、まだ発達していなかった。「頭」のはたらきである自意識は、あと知恵である。

いっぽうでは、自分の「個体」が存在する前に、すでに母親以外の他者がおり、社会があり、国家が存在し、膨大な歴史が堆積されていた。

そこで問う、自分とは何者なのか?

  その結論は、「人間は社会的共人である」ということである。

自分は、まず家族の一員としての「共人」であり、日本国の国民として、この世をスタートした。その後に「個人」となった。「共人」が先、「個人」は後。だからといって、往還思想は、民族主義でも国家主義でも国粋主義でもない。

「共人」とは、単独に存在する独立した「私」=個人への対立概念である。共人とは、他者と共に生きるしかない存在者である。共人とは、共生人、共存人、共有人、共働人などの略である。

 

5)生きる気力はどこから出てくるか? 

生きるとは、命が個体にやどり、命がその個体を構成する身・心・頭を動かす。命の力が強ければ、身・心・頭の動きは活発になる。命の力が弱ければ、身・心・頭の動きは衰える。命の力そのものは、天与のもので自分では制御できない。

それぞれの人の生き方を決めるのは、体力、気力、知力である。

この力能は、それぞれの人の命の誕生時に潜在性として個人差をもった所与とされる。この体力、気力、知力のそれぞれは、身心頭の欲望と衝動においてお互いに複雑に影響しあっている。分裂しながら協調しながら「自己」を維持している。

生来の性分や性格を大前提にして、社会生活の経験、学習、訓練、修業を通して「頭」=理性、思想、価値観が形成され、「頭」が、「心・身」のはたらきを方向づける。

人生とは、環境条件の偶然性に対応しながら、{潜在性→可能性→実現性}と{ 在る→為す→成る}が連動する循環運動にほかならない。

人間社会や世界のことは理屈では説明できないことの方が多い。人智が理解できる合理性は、不条理な世界の一部でしかない。

わたしも、人間も、社会も自然も、カオス混沌性*ソフト曖昧性*ハード厳密性が織りなし重層する不確実な世界である。わたしは、そういう世界を「縁」として、「体力―気力―知力」が残っているかぎり生き続ける。

◆体力=身は、物質で構成される肉体の力能である。医学が解剖学的に解明してくれる。

◆気力=心は、喜怒哀楽への感性、感情、希望と絶望である。

◆知力=頭は、目的と手段、因と果などの関係性の論理、思想、了解である。

 

現代社会は、医薬と医療技術という科学的知性が突出し、天与の自律性をこえて命を補強し、不自然に身体を動かしている。また現代社会は、個人の自由と人権を尊重する近代的知性が普遍的価値である。

この両者があいまって、「公」の福祉国家をもたらし、寿命をのばし、超高齢化社会をもたらした。

ところが、長命社会ゆえの気力の「不安と絶望」も顕在化してきた。そこで問う。

生きる気力はどこから出てくるか?

往還思想は、超高齢化社会における「老人の生き方」を、あらたな知性と知力の訓練=老人思想=無我→自我→大我=希望的諦観として提案する。

 

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