1.3  ピンピンころり願望について

ピンピンころり願望とは、還暦過ぎた老後といえども願わくは、なおピンピンして元気に生き、そしてコロリと死にたいという願望である。この願望は、アンチエイジング思想と重なる。

本節では、ピンピンころり願望を、その直線的な時間認識と個人主義の没社会性という視点から考察する。この考察は、2章の往還思想への前ぶれである。

 

1) ピンピンのイメージ

還暦過ぎた68歳のわたしは、年そうおうに腰痛などをかかえているが生活に支障はない。幸運にも世間でいうピンピンしたイメージで暮らしていると思う。

老後の一般的なピンピン性をここで簡単に整理すれば、ひとつの個体としてのピンピンと社会的な活動してのピンピンに分かれる。

 

Ⅰ.個体としての自分のピンピン性

    身体の健康 ; 手足を自分の意志にしたがって自由に動かせること

    意識の正常 ; 脳障害や精神障害がなく痴呆でもなく介護を必要とせず自立していること

Ⅱ.社会的動物としての自分のピンピン性

    生活の維持 ; 衣食住をまかなう経済基盤があり、メシの心配がないこと

    社会的な関係性 ; 社会的に孤立していない、家族を含めて他者と関係性をもつこと

 

このピンピン性は、「それぞれの年代で心も身体も美しく輝いて生きましょう」というアンチエイジングに重なる。その典型中の典型が、80歳こえてもなおも社会的に活躍されている三浦さん、日野原さん、瀬戸内さん、などなど驚異的にピンピンな方々であろう。この極上のピンピンには届かなくとも、「人さまに迷惑かけずにまあまあ何とか元気にやっています」というレベルのピンピンさんはおおい。周りの多くの老人にピンピンころり願望がある。

 

2)コロリのイメージ

ピンピンころり願望のコロリとは、いかなるイメージなのか?

コロリ願望は、アンチエイジングとちがって「死」を意識している。コロリとは、「生」の終わりが「死」に至る期間に関する意識である。

アンチエイジングは、「いつまでも生き続けたい」という「不老長寿」願望に近いが、コロリ願望には死への覚悟があると思う。それは、老後のマイナスイメージであるヨボヨボ・トボトボ・ショボショボな生活期間を避けたいという願望である。

では、自分はコロリ願望派か?

そうではない。今のわたしはピンピン尊重派であっても、コロリ願望はない。

そこで、なぜコロリ願望ではないかについて自分の意識を分析してみる。

 

わたしにとってのコロリのイメージは、日々の日常の連続に対する突然の断絶である。山に登って下るのではなく、頂上から断崖絶壁を落下するイメージである。

昨日まではあんなに元気だったのに、今朝になったら死んでいた、というイメージがコロリである。昨日と今朝の時間差ではなく、1月や数ケ月でもコロリ現象はありえるかもしれない。しかし数年をかけたコロリは、コロリの語感になじまない。

コロリには、余韻を残しながら時間をかけて「ジョジョにスーット」消えていくというイメージがない。明るかった部屋の照明スイッチを切って、部屋が一瞬で暗闇になるイメージ。ジャズのセッションのもりあがり頂上でパタリと音がやみ、突然に静寂が支配するイメージ。

今日までは元気だが、明日コロリと突然死することが純粋なコロリ現象だとすれば、わたしにはそういうコロリ願望はない。コロリ願望がピンピン・シャキシャキだけを欲望し、ヨレヨレ・ショボショボを避けたい、逃れたいというのであれば、わたしにはそういうコロリ願望はない。

 

3)コロリ願望の思想性

コロリと逝きたいという欲求は、いかなる考え方・思想性なのだろうか?

わたしがコロリ願望派でないのは、コロリは、命というありかたの自然なイメージに合わないと思うからである。断絶・非連続の突然死には、不自然さがまとわりつく。自我意識が強すぎる。我執。

そういうピンピンころりの生きかた/死にかたには、無理があるように見える。人間としての努力の方向が、ちょっとちがうのじゃないかと思う。

もっと強くいえば、ピンピンころり願望の思想性に、個人主義尊重の没社会性を感じる。その意味は、社会的な動物としての無責任さというか義務放棄である。だからコロリ願望は、社会的動物である人間の自然な死に方をよしとするわたしの好みに合わない。

 

わたしにとっての自然な死は、生の連続過程としてのピンピンが年とともに減衰していくイメージである。ピンピンさが緩やかにジョジョにスーット自然消滅していくイメージが、コロリに代わる死のイメージである。ピンピンがショボショボを包み込んでいくイメージである。

還暦過ぎたわたしにとってのピンピンとは、積極的に老いを受けとめながら死に向かって逝く準備をする姿勢を意味する。いつ死んでも悔いのない生き方を日々確認するウイズエイジングの思想である。老後をピンピンした姿勢で、「あの世へ還る」逝き方を生きるのがわたしの願いである。

こういう考え方に確信をもったのは、生後3ヶ月で我が家の一員となった柴犬の飼い犬が13年近くの寿命をまっとうする姿をみた最後の数ヶ月の体験である。老衰という時間の過ごし方を柴犬に教えたもらった思いがしたのである。

誕生の時点で死亡宣告を受けた生き物の宿命として、身心と社会性にかかわるトボトボ・ヨレヨレ・ショボショボに向かう不可避性をピンピンして受け入れようとする姿勢。確実に予想される我がショボショボの老後をシャキッと受け止めながらフェードアウトしたい気分。

 

4)死に対する向かい方

五体満足の健常者である自分は、病気や障害をできるだけ避けたいと思う。しかし老いていくということは、近い未来に自分もショボショボとなるかもしれない可能性を否定できない。その先に死が訪れることは確実である。その死に自分はどのように向かうか?

死に対する向かい方には、一般的につぎのようなものがあるようだ。

  老後や死の話題をタブーにする
老いることや死ぬことの話題を禁忌タブーのごとく避ける。自らの老いを自覚したくない。老いへの対応からの完全逃避、若さ至上主義、実年齢無視のアンチエイジング

  老後や死の話題を棚上げ先送り
老いていく我が心身の「正常さの欠如」の可能性を十分にわきまえている。しかし今から未来の出来事を心配することはない。その時はそのときに対処すればよいという開き直りというか自覚的な楽観主義

  桜が散るがごとく死ぬ潔さへの賞賛
メソメソ・ウジウジと生に連綿とする柔弱姿勢への嫌悪、ヨレヨレ・ショボショボへの恐れを一挙に超える勇断さへの憧憬、日本の武士道や戦前の軍国主義教育、神となって靖国神社へ還り祀られることを信じる特攻隊精神、宗教的に高揚した自爆爆弾テロや殉死への賛美、個人的な自殺ではなく社会的権力により飼いならされた集団死への肯定

 

①タブー派は、誕生の時点で死亡宣告を受けているという事実に耳をふさぎ、その事実を直視しない。

②先送り派は、死が来る事実をきちんと受け止めながら避けようとする。

死亡宣告を執行猶予にしておくという姿勢は、①タブー派と②先送り派に共通である。両者とも、いつまでもピンピンして人生の上り坂を登り続けたい、下り坂も還り道も避けて、どこまでも往き続けたいと願う。そのために身体年齢と気持年齢の若さを維持することが、老後の努力目標となる。

しかし、その努力目標だけでは、自己努力によるコロリの招来ではなく、他人任せのコロリ願望のような気がする。

コロリの到来を他力本願にしているのではないか。だから残念ながらコロリでなく、要介護状態になったとしたら、医療技術と社会保障制度に身をゆだねることになる。社会負担の負荷増大に加担することになる。それは、無責任のような気がする。

老後の努力目標は、身体年齢と気持年齢の若さを維持することだけでなく、ヨレヨレ・ショボショボにそなえる思想年齢を深化させる目標もつけ足さなければならないと思う。

 

③桜散派は、「自分の死と向き合う」こと、「自分の死を飼いならす」、「自分の死を社会的に位置づける」という面で、わたしの死生観と幾分かの共通項がある。

しかし「死を飼いならす」仕方がちがう。③桜散派は、一挙に死線を飛び越えたい願望であり、わたしはジョジョにスーット死を迎えたいという点がちがう。

あまたの戦いの歴史において、統治者・司令官・上司は、部下の平民・兵士に向かって然るべき大義の旗のもとで「命を捨て名を残せ」と鼓舞する。わたしはそれを肯じない。わたしにとっては、自分が死んだあとの名などどうでもいい。

わたしは「メソメソ・ウジウジと生に連綿とする柔弱姿勢」を嫌悪しない。それは素直で自然だからである。「一挙に死線を越す死に方」を潔しよしとする社会的思想ではなく、自分の身体の不全や意識の麻痺という個人的な事象を、個人の自覚で対処しながら社会的に飼いならすこと、社会的な共空間において老人が共生できること、そういうイメージを願望する。

 

5)老後の不安の根本原因

前につぎのように述べた。

「アンチエイジング」は、個人が自立して生きる自己責任への意識でもある。少しまえまでは、大家族制度や地域共同体で受け入られる老人の居場所があった。しかし、少子高齢化の核家族と地域コミュニティの崩壊により、安心して人にたよって老後を過ごせる老人の居場所がなくなった。近助・互助・共助の不在。

このことが、老後の不安の根本原因だと思う。この点で、アンチエイジングとピンピンころり願望は、同根である。この不安の性質について考える。

 

わたしは還暦を過ぎた63歳のときに、一戸建てから高層マンションに引っ越した。古本のゴミだしなどでそのときに痛めた腰痛をいまでも引きずっている。左肩のコリと鈍痛も慢性化している。歯もあちこち弱くなった。体の老化現象は確実に進行している。人の名前やモノ忘れや引き出しを開けたまま閉めないことも多くなった、ころんで歩行困難になるかもしれない。寝たきりになりトイレにも行けなくなるかもしれない、介護してもらうことになるかもしれない。いわゆる痴呆症や脳障害により自分の行動を自覚できなくなるかもしれない、身体が丈夫ゆえに徘徊などめいわく問題行動を起こすかもしれない。

これらの世間に見られる老人症候群が、我が身に訪れることの可能性は否定できない。

自立した生活ができない。しかし、人様に迷惑をかけたくない、世話になりたくない。家族や社会の世話にならざるをえないことへの申し訳なさ、自我の屈辱、自尊心や誇りへの傷つき、という複合した感覚。だからコロリと死にたい。こういう思いは、自然な気持ちとして自分も分かる

ここには、ふたつの不安がある。

  ヨレヨレ・ショボショボ・痴呆などの我が身の惨めな老衰状態

  家族や他人に負担をかける負い目

では、なぜ「負い目・申し訳なさ」を心配するのだろうか?

 

自立・自活できない赤ちゃんや幼児は、親や社会施設のお世話にならなければ生きていけない。だけど赤ちゃんは、「負い目・申し訳なさ」を感じない。自我が発達していないだけでなく、子どもの養育に社会常識が存在するからである。

 ところが老人は、自我が発達している。自立心がある。だから「負い目・申し訳なさ」を感じる。逆にいえば、自活できないヨレヨレ・ショボショボ・痴呆などを、自然な状態だとみなす「養老」の社会通念がないということである。あるとすれば、人権尊重や社会的権利などの社会思想である。

前につぎのように述べた。

「アンチエイジング」は、人命尊重、基本的人権、生きる権利、福祉社会国家など戦後の日本国憲法の思想と符号する。多くの人が、長命社会を生きる社会保障を国家にもとめる。年齢に関係なく「健康で文化的」に生きる権利が、金科玉条となる。事故や障害や病気や老化など自分の不幸に対するあきらめ・諦観思想は、排除される。老衰して社会的役割も果たせず、文化的生活もできない老人といえども、基本的人権と生きる権利にもとづき、選挙権は与えられ、福祉を国家の義務として要求する。強者の富の再配分を社会的権利として主張する。

しかし、生活保護の受給を恥じる気持ちを持つ人もおおい。公助を拒否し自助の限界で孤独死するニュースも絶えない。

 「受給を恥じる気持」は、「受給は当然、当たり前、それは国家の義務なのだ」という近代思想の考えの対極にある。「受給を恥じる気持」は、むかしの古い考え方なのだろうか?

 

6)老後を生きる思想年齢の深化目標

わたしは自分が病気になるかもしれない、障害をもつようになるかもしれない、痴呆になるかもしれない、そして家族や社会に迷惑や負荷をかけ続けるかもしれない、という可能性に目をつぶり忘れたふりして隠す気持ちにはならない。退職して年金暮らしの老人にとって、先送りできない問題である。

だから、身体年齢と気持年齢の衰えを、思想年齢でカバーする努力をすべきだと考える。努力の方向が、好奇心や趣味や社会参加などによる気持年齢の若さの維持だけでなく、「未老人」から老成・成熟に向かう思想年齢の深化でなければならないと思う。

ヨレヨレ・ショボショボな事態に個人的な知恵工夫で対応しながらも、どうじに社会的な仕組みの中で「あの世」への還り方を飼いならす、手なずけるというイメージである。個人責任と社会責任と両方の望ましいバランスの仕組みをイメージする。

ここでいう社会的な仕組みとか社会責任とは、年金介護制度など社会保障政策や終末期医療制度などの<公的>な仕組みのことではない。もっと個と個がつながる<共生>的、<共働>的な仕組みである。

思想年齢の深化目標は、個人の生命にかんする生命論・人生論・死生観と社会的な共存・共生・世代論・社会思想などに立脚した安心立命・則天去私・敬天愛人の境地である。

 

7)個人主義と基本的人権尊重を超える公・共・私の思想性

老後を生きるということは、社会と密接に関係する。死生観は、宗教的な雰囲気をともなう個人的な覚悟だけではなく、社会的な関係性でもある。

これまで考察してきたピンピンころり願望の論点は、死に対する姿勢の没社会性であった。老後のヨレヨレへの対応責任において、コロリ願望は、「正常さの欠如」への不安解消を、自分だけの自己責任の問題とするか、または社会保障の制度的問題だとするか、どちらか一方に偏った考え方ではないかと分析した。

つまり<自助・個人>か<公助・国家>の二分法である。そこには<近助・互助・共助>という「共生体」たりうる地域コミュニティの視点が欠落している。

それに対して、わたしの「ピンピン・ジョジョにスーット」願望は、個人責任と社会保障の両方がバランスする中間の<近助・互助・共助>の仕組みをもつ地域コミュニティに期待する。

そのほうが自分にとっても社会にとっても自然だと思うからである。公・共・私の三階層の社会的な仕組みをイメージする。

 

多くの人がコロリ願望を抱くのはなぜなのか。なぜショボショボ・ヨレヨレを恐れるのか。老後はヨボヨボであることが、自然なことだと受け入れられないのはなぜなのか。沖縄の老人と東京の老人の痴呆の様子がちがうという臨床統計があるが、それはなぜなのか。老人の生き方と死に方について、戦前と戦後の考えかたはどう変化したか。縄文文化を基層として日本的風土に堆積をつづけ、江戸時代を経て明治、大正、昭和の戦前までの日本人の伝統的死生観は、戦後の日本社会でどのように継承され、どのように変容されているか。

このような問いを重ねてきたら、戦後の新憲法の「個人的人権尊重」が根本的なテーマだと気付いた。個人尊重だけでなく、地域にねざす共生尊重の思想もそなえなければ、片手落ちだと思うイメージが、公・共・私の三階層社会である。

 

8)社会的動物としての人間の共存・共生思想を鍛える

自分の個人的な老後への心配は、結局のところ家族も含む「社会的動物である我が身の社会性への不信」なのだ、と理解する。

戦後の日本社会の構成原理は、家制度を解体し個人を基本単位とした。社会構成を、基本的人権尊重にもとづき個人という要素に還元した。家や家族や地域ではなく、個人が直接的に社会と向き合うことになった。

戦後の日本人は、基本的人権尊重に付随する自由と民主平等の個人主義思想をかぎりなく謳歌している。社会的動物としての人間の共存・共生性よりも、個々の独立と自立を強調する。もろ人みな自由であり平等であるべし。共存・共生よりも人間の個としての尊重。共感力・共鳴力よりも自己主張の強さを鼓舞する個人の自立・独立の尊重。

それと同時にバラバラに分解された個を救うセイフティネット、子どもに対する親権制度や生活保護などはじめとする各種の社会保障政策や終末医療制度などの過剰負担。

個人の自己責任と公的な社会諸制度が並存する。その中間に地域の隣人関係がない。

これらの近代思想に裏付けられた日本社会の現状が、老人の生き方と死に方と密接に関係していると思う。

 

戦後新憲法の基本的人権尊重、限りなき個人尊重の裏側に付着した個人の社会的動物性への配慮欠如。孤立して社会に投げ出されたアトムな生命の寄る辺なさへの不安。

安心して我が死を受け止めてくれる社会的臨終場所の不在への不安と恐怖。だからこそ切ないまでのコロリ願望。

しかし食糧事情や衛生環境や医学と治療技術の発達のおかげで延命・長命社会でもある。

個人尊重と技術革新を両輪とした「死の恐怖」ではなく、「死に方への恐怖」の蔓延。これがわたしの中にもわたしの眼前にもひろがる光景である。

「私」と「公」の二分法の隙間に不安と恐れが宿る。その不安を公・共・私の三分法で解消する。「私」と「公」の間に「共」を差し込む。そこに我が老後の安心立命を求める。

命あるものの自然な死に方のわたしのイメージは、自我に執着しすぎない、自分に囚われすぎない、生きてきた社会にスーッと溶け込みながら、あの世に還るイメージである。

還暦で折り返し、老人になりボケ痴呆になり、自分の名前すら失念し、自分の行動すら自分が意識できなくなるという自己解体の下り坂は、実は生命のリズムとして自然なことなのだ、という確信の根拠をさらに考え続けなければならない。

以上  1.4へ