6.5 熟老人の修練目標を要約する

 1)「ボケ老人」も自然なことじゃないか

2)熟老人の修練目標を要約する

3)終業期を生きる老人の社会参加

4)現代日本人の社会思想

5)老人思想の主張

6)老人思想の起点 ~「強い人間観」を問いなおす

 

1)「ボケ老人」も自然なことじゃないか

わたしは、諦観老人を自称する。しかし世の常識は、「あきらめるな」である。多くの人が、「あきらめ」を「敗北」とみなす。

それはそれでよいと思う。いつまでも社会に参加してがんばり続けたい元気老人と隠居願望の諦観老人とはすみ分けて共存できる。

どうじに要支援老人も不満や絶望感をのりこえて安心できる社会が望ましい。加齢にともなって、自分も要支援老人の境遇になる可能性がある。その可能性をみすえながら老後を生きる覚悟をきたえる老人思想が求められなければならない。

生きているかぎり「目標に向かって挑戦しよう、気力を充実させて生きよう、自分を向上させよう、自己を訓練しよう」という考えに異存はない。大賛成である。

問題は、その目標や自己訓練の内容というか価値観である。

少/学業期世代は、未成年から成人をめざす。20歳になったら成人式という通過儀礼がある。

壮/職業期世代を卒業したら、未老人から「成老」をめざすべきではないか。

還暦60歳になったら「成老式」という通過儀礼があるべきではないか。

そこから老/終業期世代が老人思想を身につける修業がはじまる。わたしは、未老人じゃなく「成老」から「老成」をめざしたい。そして「悠々自適」でいいじゃないか。「年寄りの冷や水」はみっともない。「ボケ老人」も自然なことじゃないか、と考えたい。

 

2)熟老人の修練目標を要約する

老/終業期を生きることは、人生の後始末、あの世への旅支度である。

では、老後をどのようにすごすことが、人生の結末を幸福にするか?

往還思想は、「人生の後始末、あの世への旅支度」をつぎのように考える。

◆人は、何も持たずに、この世に生まれて出た。

◆人は、あの世へは、何も持っていけない。

◆だから、この世で持てたものを、次世代にお返ししよう。

 往還思想は、「次世代へのお返し」、「この世へのご恩返し」を老人倫理と世代間倫理の実践とする。「心からの幸福感」は、倫理的な了解をともなう感情だと考えるからである。

 その倫理を意識してすごすことを、終業期を生きる老人の修練目標とする。

往還思想の倫理観は、現代社会の「強い人間観」ではなく「弱い人間観」を基本とする。

 「強い人間観」にもとづく人命尊重や人権尊重などの権利主張は、「私」個人と「公」国家のハードな社会構造と間接的な人間関係を強化し、結果的に倫理性の劣化をもたらしている。「強い人間観」は、ゴーマンな人間中心主義であり、現代社会の倫理性は動物社会にも劣ると考える。

だから、往還思想は、「人間は弱い動物である」という人間像を倫理観の基本とする。

その根拠は、人智をこえて万物を支配する「お天道様」への畏怖・畏敬である。自然環境の海や山の直接体験は、自分がかぎりなく「ちっぽけな存在」であることを実感させる。

人工物装置に依存した快適で便利で清潔で安全に保護された都会の暮らしでは、「お天道様」への畏怖・畏敬の念などうまれない。往還思想は、そこに現代文明社会の倫理性の劣化をみとめる。

往還思想の倫理観の基準は、我が身心頭の欲望がおよぼす他者への影響が、「お天道様」に恥じないかどうかである。

倫理とは、「私―天」の関係性である。

熟老人の境地をめざす往還思想の倫理的修練目標は、日々の隠居生活において「お天道様」を意識する則天去私・敬天愛人である。強い人間像が固執する「主体性」の溶解である。「自分は弱い動物でしかない」という「しょーもないなあ」という「諦観;あきらめ」である。

「弱い人間観」を基本とする倫理観の実践は、弱い人間どうしが助け合う互助社会=新たな世代間交流による共同体の再生である。

弱い人間どうしが「助けを求める/求めに応じる」という人間関係は、義理人情=配慮である。

この顔の見える直接的な人間関係は、現代社会の「強い人間」たちが主張する「私」の権利と「公」の義務という間接的で制度的な関係とは、価値観がちがう。「生きる権利」を主張して、「公」国家に救済を求めるだけの価値観を控えめにしたい。

往還思想は、老人倫理と世代間倫理の問題を、「私―公」関係を補完する「私―共―公」の関係性の視点から問いなおす。少壮老/世代間交流により「私―共-公」の関係性を創造する社会参加の思想を「共生思想」とよぶ。

 弱い人間どうしが、「私―天」の倫理観を共有することと「私―共」の世代間交流の試行錯誤が、往還思想の老後を生きる希望にほかならない。

◆現代社会: 強私―滅共―強公―無天 

カオスな「私」個人主義*ハードな「公」国家主義

◆未来社会: 弱私―弱共―強公―敬天

カオスな「私」個人主義*ソフトな「共」共生主義*ハードな「公」国家主義 

 

3)終業期を生きる老人の社会参加

わが往還思想と共生思想は、時間軸を「少壮老/人生三毛作」論とする。空間軸を「私共公天」論とする。その国家像は、「私・公」二階建社会に「共」をはさみこむ「私・共・公」三階建社会ビジョンである。このビジョンにむかう社会変革の社会勢力を、老人世代とする。

「共」とは、地域コミュニティ=地縁共生社会である。その社会は、国家支配から一定の独立性をもった自治共同体とする。そのイメージは、徳川幕藩体制における地方分権の社会システムである。あるいは老子80章の「小国寡民」である。

その自治共同体において、老/終業期と少/学業期との世代間交流活動を、「使途限定通貨」の流通システムとして創造する。

この社会参加に老人世代が、隠居しながらも精神的に生きる居場所をもち、そして他者の配慮に感謝しながら自然に逝く希望と幸福を求める。

老/終業期は、「この世の人生の後始末、あの世への旅支度」、「発つ鳥跡を濁さず」の人生の最終ステージである。その人生劇場で、主役の老人世代が、少/学業期との交流において老人の攪乱力をふりまわす。

そのめざす期待効果は、顔の見える差異の多様な人間関係において、「現代社会の閉塞感を突破する」ことである。

  閉塞感=「心の底から満足」できない現代社会の根本原因を、つぎのような図式ですでに考察した。

直接性の喪失==>間接性の肥大==>閉塞感

◆直接的な人間関係の喪失-→記号情報環境の隆盛=インターネット
直接的な人間関係が、記号情報環境において、間接的な人間関係に変化した。

◆直接的な自然環境の喪失-→人工物環境の席巻=都市型生活、高層マンション 

直接的な自然環境が、科学技術の発達によって、人工物環境に変化した。

現代社会の閉塞感」を突破して、「心の底から満足」できる幸福感を求める実践は、間接性から直接性への転換である。

閉塞感の打破==>間接性の縮小==>直接性の増大==>幸福感

①人間関係の直接性・・・・世代間交流

老/終業期の老人世代が、少/学業期の子ども世代と交流する。

 ②自然環境の直接性・・・・農山村と都市との交流

  地方や郊外の農山村集落と都市団地の住民が交流する。

 ③国際関係の直接性・・・・多国籍住民との交流

  日本人と多国籍住民が国境をこえて多文化を交流する。

この交流が、老人世代の「新たな社会参加」という老人思想の実践構想である。そして「新たな社会参加」には、「新たな価値観」を必要とする。

「新たな価値観」の基盤は、縄文人からひきつぐ日本人的な倫理意識である「お天道様」、「八百万の神」への畏怖・畏敬を無条件の至上価値とする生命論、人間観である。

老人世代の新たな社会参加の価値観の根拠は、「天」への畏敬つまり則天去私→敬天愛人である。

往還思想は、終業期を生きる老人の修練目標として、私;則天去私、共;敬天愛人、公;修己治人をめざす。

 

4)現代日本人の社会思想

これまで述べてきた往還思想だの老人思想だのは、現代日本人の社会思想からみれば、一種の非常識であろう。だから、「新たな価値観」やら「新たな社会参加」などといっても絵空事かもしれない。

戦後の新憲法のもと日本社会は、「私」の自由と「公」の法律によって社会秩序が成り立つ。倫理道徳などは、保守主義者の反動として片隅においやられた。

社会構造は、私;個人主義と公;国家主義の二元論である。「公共」事業を「公」である行政機関・役所・官僚・公務員が独占している。共同体が崩壊した「私公二階建」国家である。

この民主主義国家には、倫理観をベースとする「共」思想と「天」思想が不在である。この「私公二階建」社会の秩序をささえる社会思想は、生命倫理、世代間倫理、社会保障倫理、老人倫理の問いにつぎのように回答する。

(1)生命倫理 ;私

死にむかう老人に延命治療をしてまでも長生きさせるのは倫理的か?

◆少壮老に関係なく「生きる権利」を絶対的に尊重する。人命尊重主義。

(2)世代間倫理 ;共

 老人の社会保障費負担を過剰に現役世代と次世代に負わせるのは倫理的か?
  ◆国家の借金1千兆円に無自覚、無責任な個人主義。経済成長戦略重視。

(3)社会保障倫理 ;公

  保険料をはらう、税金をはらう、という倫理性は、いかなる意味をもつか?

◆憲法と法律の遵守。倫理というよりも国民の権利と義務の思想。

(4)老人倫理 ;天

後期高齢者が延命治療と介護をうけるのは、「自然」なことか?

◆医療と介護のビジネスに欲望を抑制する倫理基準を制定できない袋小路状態。

 

5)老人思想の主張

老人思想は、上の現代日本人の社会思想への対案である。その思想を人生論の往還思想と社会論の共生思想で構成する。

往還思想は、「私」と「天」の関係を論じる。

共生思想は、「私」と「共」の関係を論じる。

老人思想は、「私」の自由・欲望を抑制する契機として、「共」の人道と「天」の天道を修練する倫理思想である。

(1)生命倫理 ; 私

◆人間は他の動植物の生命を食っていきるという自覚をもつべし。脱人間中心思想。

(2)世代間倫理 ; 共

 ◆老/終業期世代は、少/学業期世代を支援すべきである。

(3)社会保障倫理 ; 公

  ◆税金の「法貨」とは独立した自治体の「使途限定通貨」を互助の媒体とすべきである。

(4)老人倫理 ; 天

◆延命治療をしてまでも長生きするのは「気持ちがわるい」。天寿でよい

 

老人思想は、超高齢化社会における「人間の尊厳、自由、人権尊重」の思想性を根本に立ち返って問題にする。非常識とおもえるかもしれないが、思考停止することなく考える。

老人思想は、以下のような実践を主張する。

(1)個人主義の「私」は、「公」国家に無条件に全面的には依存しない、頼らない。

(2)老人は、「共」―コミュニティの地域(疑似拡大)家族制のもとで天寿を全うする。

(3)老人は、我執を離脱し、「去私、捨私、虚私、無私」の人間関係を修練する。

(4)老人は、「天」に従って安心立命にむかう「共人」仲間と隣人関係をつむぐ。

 

6)老人思想の起点 ~「強い人間観」を問いなおす

近代西欧思想は、人間を自然の生態系の頂上に君臨させる。人類は、自然を制御し、自然を支配できるという「強い人間観」である。個人の自由、人権、自立、主体性を尊重する。他の生き物たちを食っていきるしかない人間の生命に特別の地位をあたえる。

現代社会の常識も、植物と動物を支配できる「強い人間」という人間像である。

往還思想は、この「強い人間観」を問いなおす立場から、つぎの問いを発する。

「強い人間像」は、自然=天も恐れぬゴーマンな人間中心主義じゃないか。

「人は、命あるかぎり生きること自体に尊厳をもつ」という思想は、「正義」なのか。

個人が生きる条件として権利主張だけでなく、義務の訓練も為すべきじゃないか。

「強い人間像」は、人情や配慮などの生活世界の処世術を軽視しているのではないか。

「強い人間像」こそが、グローバルな紛争や戦争から身辺のいじめ問題や人間の尊厳をおかす介護状況やいたずらな延命治療をひきおこしているのではないか。

なぜ延命治療と介護をしてまでも70歳すぎた老人を長生きさせるのか。

自由、人権尊重、個人の自主性、個人主義を金科玉条とする近代思想を思考停止することなく問いなおすべき時代ではないか。

「神は死んだ」、「何でもあり」の思想・信条の自由を前提とする相対主義をこえる思想性が、現代文明社会の先の未来に求められているのではないか。

現代文明社会の精神性は、伝統的な日本風土の心底、深部の感性、潜在性にそぐわないのではないか。

「1千兆円の借金」は、次世代にたいして、あまりにも無責任・自己中心ではないか。

民主主義社会の私利私欲の自由を自制する人生観教育が必要になったのではないか。

個人主義的な「自由」を抑制する社会思想に知性を結集する時代なのではないか。

社会にむけた「共生」思想も修練しなければ、安心と平穏にいたらないのではないか。

 

21世紀の日本社会は、自由と個人主義尊重がもたらす私利・私欲・貪欲・強欲を是とする社会になっている。知性の方向が、功利的な合理主義だけに偏向している。理性的に人権を主張する「強い人間観」の個人主義である。

戦後教育には、「共人」が共生する社会のための倫理・道徳・規範がない。倫理・道徳・規範は、個人的な主観性としてかぎりなく相対化される。

個人情報保護と自己防衛本能が、異常に肥大化している。その結果、「個人」が「弧人」となり、格差社会の寄る辺なき無縁社会をただよう。それが、不安に拍車をかける。「修身・正心・誠意」の思想性を失っている。

このことが「借金1千兆円」を帰結しているのではないか。

この借金は、どうなるのだろうか。

日本の行く末を「共生思想」の希望に託して、あれこれ妄想することも老後の道楽となる。

以上 6.5へ   あとがきへ